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広島市東区矢賀に過ってあった「岩鼻(いわはな)」です。
※過って奇観と云われていた景観でしたが、現在は住宅(団)地となりその面影はほとんどありません。 |
広島市文化財団文化科学部文化財課の資料に、ここで取り上げた岩鼻(厳鼻)について解説しています。
『「芸藩通志」名勝の部に、「矢賀奇巌 東郊官道の傍 一山あり、尾長山東南の尾なり。俗巌鼻(いわはな)とよぶ、全山奇巌重畳す。上古海涯にて山骨を露せしものと見ゆ、今松樹其上に茂生す亦一奇観なり」と紹介され、あわせて“巌鼻図”と名付けられています』とありましたので、参照しました。 |
*現在は(埋立・埋立の新開開発で)海岸から離れていますが、元々は広島湾に突き出た岬だったそうです。 |
岩鼻(いわはな)とは、岩の突き出した端(はな)の意味で、往時には広島湾に突き出た岬(みさき)であり、岩が海波に洗われ、奇岩重畳(ちょうじょう)し、松が茂生して人目を引く奇観(きかん)であったといわれています。
広島城の築城の折りには、天守台や石垣の石材として、この岩鼻の細粒花崗岩が使われました。また、1796(寛政8)年我羅我羅橋にあった御茶所(おちゃどころ)がこの岩鼻の南端に移され、諸大名が参勤交代の途中ここで休憩し、行列を整えて広島城下へ入ったといわれています。
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1989(平成元)年から造成工事で山容が改まり、いまでは強固な地盤に高層住宅が建ち並んでいます。 |
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今(2014年)年になって頁を編集した(楠那の)岩鼻でやはり岩鼻と云えばここ“矢賀の岩鼻”を抜きにはできないな〜と思ったのです。
わたしが故郷広島に帰って来た1982(昭和57)年当時はまだ奇観と云われた姿をみることが出来ていたのです。しかし、銀塩カメラの時代ではありましたが、撮影しておこうと思う心はなかったのです。
後に造成工事が終わり、高層住宅の建設関係で少しばかりこの地を何度か訪れた時にも変り行くこの地を撮影しておこうなどとは思っていなかったのです。 |
今(2014年)回近くの“岩鼻架道橋”を編集しようとぶらり散歩しましたので、この「矢賀の岩鼻」も撮影し頁を編集しようと思っていました。しかし“矢賀一里塚跡・碑”を撮影し、この辺りからは変っているもと岩鼻がわかればと思いながら少しばかりぶらり散歩しましたが、昔の岩鼻の面影どころか高層住宅建設がはじまった当時とはまるで違っている、もと岩鼻地区の変りように驚くばかりでした。 |
岩鼻がもともと広島湾に突き出た岬だったと文章で云われても地図があれば一目でわかるのにと思ったのです。
その地図、何処かでみた事があったのですが、この頁を編集する時には思い出し探せませんでした。
2012年(中区白島の)碇神社に広島市によって設置された説明板に地図があった事を思い出し、下段に掲載しました。箱島(現在の白島)に鎮座した碇神社、地図の右端に岩鼻があります。 |
23.10.31.更新 14.10.28.裕・記編集 |