(矢賀の)船繋石
  東区矢賀に残されている?「船繋(ふなつなぎ)石」です。
広島市文化財団文化科学部文化財課の資料に、ここで取り上げた船繋石について解説しています。
『高さ約66cm、幅約50cmの三角柱に近い自然石』
とありましたので、参照しました。 
資料によると、
『昔、矢賀は山地だけで、(いまの)平地は一面の海でした。
1289(正応2)年の古文書に矢賀に港があったとの記述があります。この頃(北条貞時が将軍だった時代)のものでしょうか、I氏宅の十字路に船繋石が残っていました。大正時代初期に交通の支障があるので、取り除きH氏宅に移設しました。』とあります。
(わたしが)撮影した三角柱の石は、高さ底辺ともに資料にある寸法の半分くらいです。
間違ったかな〜と思いましたが、もしかしたらもともとの船繋石の上半分が残される事になったのかなとも思いましたので取り上げました。
いまの矢賀の町は海辺で港があったということは想像できないほど広島湾から離れていますので、「船繋石」で海だった時代を記憶に残そうと資料に取り上げられているのだろうと思いましたのでこの頁を編集しました。
撮影した時同じお宅に、四角石が車止めとして置かれていました。こちらの方が船繋石としては利用しやすいかなと思いましたので一緒に掲載しました。
2012年、矢賀の街をぶらり散歩した時にみた三角柱の石で、これが資料で知った船繋石かなと思って撮影したのです。
矢賀の町に港があった事を示す「船繋石」を取り上げました。
2015年になり、撮影画像を整理している時、わたしが船繋石かなと思った画像がありましたので頁を編集しました。
中区の碇神社でみた説明板に地図がありましたので、海辺だった事の参考になるなと思いこの頁にも掲載しました。
  15.02.28.裕・記編集

12.03.22.撮影
広島市東区矢賀2-5 

12.03.22.撮影

12.03.22.撮影

12.02.04.撮影
太田川河口地域推定図(15世紀ころ)
中区白島の碇神社に設置されている「二葉の里歴史の散歩道」の説明板にある地図を参照しました
岩鼻(いわはな)とは、岩の突き出した端(はな)の意味で、往時には広島湾に突き出た岬(みさき)であり、岩が海波に洗われ、奇岩重畳(ちょうじょう)し、松が茂生して人目を引く奇観(きかん)であったといわれています。
広島城の築城の折りには、天守台や石垣の石材として、この岩鼻の細粒花崗岩が使われました。また、1796(寛政8)年我羅我羅橋にあった御茶所(おちゃどころ)がこの岩鼻の南端に移され、諸大名が参勤交代の途中ここで休憩し、行列を整えて広島城下へ入ったといわれています。

12.03.22.撮影
車止石(こち他の方が船繋石としてはいいかなと思い)  手前の三角柱石も車止めかなと思いました

14.10.26.撮影

14.10.26.撮影
(わたしが船繋と思った石)  



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「牛田・二葉の里・矢賀附近」編


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