だい じんじゃ
大神社

  東区二葉の里に鎮座している「大神社」です。
※1945(昭和20)年8月6日原爆により焼失し、再建準備中で、仮の本殿が再建されています。
※(通称)元吉稲荷神社
平成6(1994)年8月1日発行「広島県神社誌」を参照すると
『もと黒髪山地主大神社と号していました。
黒髪または尾長と称する由来は、「往古当山に大いなる黒蛇ありて時々海中に出没す。その頭は海に入るも尾はなお山中にあるにより尾長と称す。」
その黒蛇はしばしば海上難船を救助したので、大神の変身ということで黒神と称しました。神(かみ)の訓は髪(かみ)に通じるので黒髪山と云う。その黒蛇のいる所は常に霞がかかるので霞山とも称します。』
祭神:
相殿神:
大穴牟遅神(おおなむらのかみ)
天照大御神、宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)
由緒: 平清盛(1118-1181)が音戸の瀬戸を開く時にこの黒神の霊験があり、それにより久寿年中(1154-1156)神殿を再建して地主尾長大神社と号し、安の一村を神田に附したと伝えられています。
承久年中(1119-1122)安芸国守護武田信光が再建し、文和年中(1352-1356)守護武田氏は黒髪の峯姫神社の御祭神・天照大御神と宇迦之御魂神を当社へ合祀し、当社並びに天神宮を佐東銀山城の守護神としてその家臣串家に祀らせたという。
武田氏滅亡後、毛利元就(1487-1571)が当社並びに天神宮の神主を渡辺家に命じ、天正年中(1573-1592)には毛利輝元(1553-1625)は社領を寄せている。
慶安元(1648)年二代藩主浅野光晟(1617-1693)が当地へ広島東照宮を造営したことから、当社はその相殿へ祀られました。
明治2(1869)年東照宮から分社し東照宮境内地の西端を分けて境内としました。
昭和20(1945)年8月6日原爆により社殿総て焼失しました。現在再建準備中です。
長く雑木林の中だったのが、伐採され参道が出ていましたので、いよいよ再建が進んでいくように思いましたが。
今も牛田に住んでいる兄が、時々犬の散歩道として通っているので、広島神社誌にある広島東照宮の西隣のこの大神社のことを聞いてみたのですが、やはり雑木林で雑草が生えていて神社が鎮座していることは知らないということでした。
神社誌で再建中と知ってから随分経ちましたが、2022年コロナ禍の中でしたが、兄と訪ねてみたのです。〔NET検索で2人の方がこの大神社の頁を編集されておられましたが、雑草をかき分け本殿前で参拝ということでしたので随分景色が変わっている結果になりました。〕
今回は、以前新聞報道で知った東照宮参道根際に再設置されたという“旌忠碑”をみて、西隣の道上にある大神社へ雑草などをかき分け行こうと計画したのです。
雑木林と思っていたのでしたが、雑木は伐採され、雑草は刈り取られており、参道(下画像)が現れており、上っていくと遠く本殿がポツンと見えてきたのです。
本殿下の広場を駐車場にして安定収入を得て、社殿再建になっていくのかなと兄と話しましたが。
 22.02.23.裕・記編集

22.02.21.撮影
広島市東区二葉の里2-1-20

22.02.21.撮影
(社殿敷地下の広場からみました)

22.02.21.撮影
(石段上の両側の石柱に文字が刻まれていました)

22.02.21.撮影

22.02.21.撮影
中實中 米綿會所

22.02.21.撮影
一間社流造り 銅板葺き (仮の本殿でしょう)

22.02.21.撮影

22.02.21.撮影

22.02.21.撮影

22.02.21.撮影

22.02.21.撮影
(本殿からは広島駅前の高層ビルたちがみえます)

22.02.21.撮影
本殿前の石畳

22.02.21.撮影
社殿下の広場:東隣(広島東照宮御供所、脇門がすぐみえます)



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「牛田・二葉の里・矢賀附近」編


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