高間壮士之碑

  東区山根町の聖光寺境内に建立されている「高間壮士之碑」です。
※明治3(1870)年春建立。撰文は、阪谷朗廬(さかたに ろうろ:1822-1881)。
※「高間壮士之碑」の前に“高間省三正忠之墓”の石柱が建てられています。
※広島護国神社の筆頭祭神として祀られています。
明治元年春・・・で始まるこの石碑、
聖光寺のweb siteにこの碑の要約が紹介されていますので(下記に)参照しました。
『高間省三は、この日〔慶応4(1868)年8月1日〕に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣一番乗り)。そして次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた。』

☆敵とは、奥羽越列藩同盟31藩(相馬中村藩)
☆遺体は、自性院(福島県・双葉町)に埋葬さたそうです。
広島護国神社web siteの由緒に、
『広島護国神社は、明治元(1868)年12月、明治維新の戊辰の役において陣没された高間省三命以下七十八柱を、二葉の里に新しく造営された「水草霊社」に奉祀されたのが創建です。・・・』とあります。
  関連頁:廣島護國神社
高間 省三(たかま しょうぞう:1848年-1868)
安芸国)広島藩士。諱は正忠。砲術家・高間寛八の子。
広島藩校学問所で植田兼山のち阪谷朗廬(1822-1881)にまなぶ。
砲術にすぐれ,戊辰戦争では藩の神機隊砲隊長として各地を転戦,慶応4年8月1日陸奥浪江(なみえ)駅(福島県)の戦いで戦死した。
広島護国神社のweb siteを見ているとき、ここで取り上げた高間省三さんが筆頭祭神だったことを知ったのです。
高間省三をNET検索するとWikipediaに、ここ聖光寺に慰霊碑である「高間壮士之碑」が建立されていることが分かったので、2022年訪ねて撮影したのです。
2009年この碑の根際の“梅園介庵之碑”を撮影して頁を編集したのです。その時、この高間壮士之碑も撮影していたのに、調べようともしなかったので、恥ずかしながら当時撮影の画像も掲載しました。
22.02.28.裕・編集

22.01.20.撮影
広島市東区山根町29-1(聖光寺)
碑之士壮間

22.01.20.撮影

22.01.20.撮影
高間壮士之碑 高間省三正忠之墓

22.01.20.撮影

09.07.18.撮影
〔2022年撮影:イノシシ避けのフェンス設置〕 〔2009年撮影:フェンス設置無し〕

22.01.20.撮影

22.01.20.撮影

22.01.20.撮影
(側面、裏面に刻まれた文字は無いようです)

22.01.20.撮影
(向側に本堂屋根がみえます)



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編


「牛田・二葉の里附近」編



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