(嚴島神社 攝社)地御前神社

  廿日市市地御前に鎮座している「地御前神社」です。
御祭神: 御本宮は嚴島神社の御本宮の御祭神と同じく市杵島姫命を中心として、田心姫命、湍津姫命の所謂宗像の三女を奉斎せり。御客人宮の御祭神は嚴島神社の御客人の御祭神(活津彦根命、天穂日命、天忍穂耳命、天津彦根命、熊野樟日命)と同じ。
御由緒: 御鎮座の年代は詳らかならざるも、社伝には嚴島神社(御本宮、内宮)と同じと云ひ伝えられ、御本宮御鎮座の年、推古天皇の端正元年大歳葵丑の年である。明治御維新までは、嚴島神社御本宮を内宮、地方(ぢかた)の御前の御本宮を嚴島外宮と称えたり。
御奉斎の嚴島大明神は「道主貴※」と称え奉り、専ら、天孫を助け奉り、常に天孫の為に、海陸の安全を斎ひ奉り給ふ神なれば、古来皇室及国家の鎮護、海陸の守護神として、盛んに、上下の尊信敬排を受けさせ給う。嚴島御本宮の御鎮座記によれば、佐伯の郡の住人佐伯鞍職に幽事を、百王を鎮護す。と示現ありしと云ふ。この御鎮座の所を合浦といふ。   廿日市観光協会、商工会
※道主貴(みちぬしのむち):宗像三女神の総称
本来厳島は島全体が聖地と見なされ、人が住むことは禁じられていましたので、対岸に遥拝(ようはい)のために建築物が造られ、そこから発展したとも云われているのが今日の地御前神社です。仁安3(1168)年平清盛の支援により厳島神社と同様、現在のような社殿が修造されました。当時、国府から厳島へ渡ることが難しく、陸沿いに地御前神社まで来て海中の鳥居から参拝していたそうで、江戸時代の様子を描いた「厳島図会」には、海の中に鳥居が描かれています。明治までは外宮と称し、地方(じかた:海から見て、陸地の方)にあることから地ノ御前社、地御前神社と呼ばれるようになりました。現在の大宮社、客人社の神殿は宝暦10(1760)年の再建ですが、平安期の社殿様式を今に伝える建築物です。
昔、宮島口で仕事をした時(JR電車での通勤で)車窓から木々の隙間に見るだけだったこの地御前神社をお参りすることも無く時が過ぎ、2007年9月交流ウォーク探検隊で、10月の交流ウォーク本番で2度ですが訪れお参りしました。
神社前の(廿日市町時代設置の)「地御前神社社記」を読むと(戦前の)神社信仰の一端がわかるような内容でしたので取り上げました、現在の神社解説は廿日市市観光協会の資料を参考にしました。
07.11.14裕・記編集

07.09.04.撮影
廿日市市地御前5-11

07.09.04.撮影

07.09.04.撮影
額:嚴島外宮社 鳥居と社殿と由来板

07.10.20.撮影
西よりみる、社殿前を一般道が通っています



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