(廿日市の)壹里標

  廿日市市地御前に建立されている「壹里標」です。
明治時代になって江戸時代の西国街道が廃止され、海岸沿いの道が整備されたとき、(当時)草津村の(小泉酒造の当主)小泉来兵衛が建立した一里標のようでした。
(当時)広島区の元安東詰の道路元標を起点として四里であること、
そして(当時)大竹村大和橋西詰まで五里十三丁五十六間二尺二寸(当時としては其れまで詳細に距離測定したのかなと思いつつ)
しかし、江戸時代既に伊能忠敬が日本地図を完成するだけの測量術を持ち合わせていた日本、明治時代ともなればまんざらいい加減な数字ではないのかな、などと考えながらわたしは道標をみたのです。
2011年に大竹市で同じ形式の道標をみました。その時大竹市教育委員会の説明板が付いており、壱里標のことをもう少し知ることができました。
   関連頁:(大竹油見の)壹里標
07.11.04更新    07.10.10裕・記編集

07.09.04撮影
広島県廿日市市地御前2-1






















(迄)






西






西



(迄)






























刻まれた迄という字はシンニュウに占という字になっています 明治18年=1885年

07.09.04撮影



「道標など」編



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「旧・廿日市町」編


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