(仁保島・堀越)疱瘡神社

  南区堀越に鎮座している「(堀越)疱瘡(ほうそう)神社」です。
疱瘡神社の由来  「仁保村志より要約」平成18(2006)年4月吉日
源義朝(よしとも:1123-1160)の死後、その側室であった常盤御前(1138-?)は三人の子どもを連れて平清盛(1118-1181) に所へ助命嘆願に行きました。そしてその後生まれたのが「天女姫」であり、従って源義経(1159-1189)とは異父同腹の兄妹です。
姫はその名の通り天女にも似た美女でしたが不幸にも疱瘡(天然痘)という病気に罹り、清盛は全国の名医を集めて治療に専念させました。しかし病は容易に癒えず「この上は平家の守り神である厳島明神のお力におすがりする外はない」と治承3(1179)年2月上旬姫を船に乗せ沢山の女官・従者従えて海路26日宮島に参着し祈願の後帰路に就きましたが急に病状が悪化し2月29日に姫は十四歳を一期に息を引き取りました。
清盛は止む無くその遺骸を埋葬すべき所を神に伺ったところ「これより東方七里、赤旗の立っている場所こそ埋葬の地である」とのお告げがありそれに従い、遺骸を船に乗せ東方向灘の浦まで漕ぎ来るとまさしく赤旗が立っている丘がありここがお告げの場所と考え、金銀十二枚、手玉七つ、玩具類七個と姫が肌身離さず持っていた一寸八分の黄金仏などを副葬品として埋めました、そのしるしに『栴檀(せんだん)の木』を植えて置きました。
そして、その場所から東方八間の所に四間四方のお堂を建てて本尊に阿弥陀如来を祀り、その脇に十二単衣で身を飾った姫・十四歳の立ち姿の木像を置き、入魂の秘法を行い本尊に配し祀ったと古い云い伝えがあります。その場所が昔からこの場所と伝えられています。
また、清盛は姫の亡骸を狼や狐から守るために向灘の山を切り開いて堀を造りました。現在も青崎地区に多くの井戸が残るのも、そのとき雇った作業人のためのものと云われています。
昔は向灘と書いていたのを明治初年頃より向洋と書かれるようになりましたが灘であったという意味が忘れられる事になりました。仁保島にはもともと七浦と称していた部落がありました、(仁保島)本島に本浦、大河、淵崎、柞木、丹那、日宇那そして支島に向灘がありました。
江戸時代の儒者・香川南浜が、たんな、ひうな、うじな等と云っているがこれは「なた」という音便だったのを「た」を省いているのは『なた』が水浅くはやいところをいう言葉で今は誤って海上の泊なき所を云う処になってしまっていると嘆いています。
以前厳島神社の頁を編集した時、平清盛関連伝説を調べているときにこの『天女姫伝説』も知ったのですが、ここ(向洋)疱瘡神社を訪ねたことがありませんでしたので、わたしのHPでは取り上げていませんでした。最近になって南区のまちおこしとして『南区七大伝説』の一つとして取り上げられそれなりに有名な伝承として市民に知られるようになってきましたので、今(2009年)回はじめて訪ねました(分りつらい処にあると調べたときに知ったのですが)、いまはこの疱瘡神社への道案内板が要所要所に付けられていますので間違わずにたどり着きお参りすることができました。
09.08.07裕・記編集

09.05.03.撮影
広島市南区堀越3-22

09.05.03.撮影

09.05.03.撮影

09.05.03.撮影



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