(福木村)戰役紀念・碑
  東区馬木の馬木八幡神社駐車場建立されている「(福木村)戰役紀念・碑」と「征清紀念碑」です。 
 (福木村)戰役紀念・碑
塔部分に刻まれた文字が消されているようで、刻まれた文字は(画像を拡大しましたが、わたしには)読めなかったのです。
基台正面に「戰役紀念」と刻まれています。
その横に揮毫者である人物“安正書”は読めますが、身分、名字が消されて読めません。
※「福島安正」(1852-1919)最終階級陸軍大将。正四位、勲一等。だとわたしは推測しました。
  1914(大正3)年11月に帝国在郷軍人会副会長に就任。1919(大正8)年死去。
基台左面には「日露戰出征者20名の階級とお名前」「日獨戰出征者4名の階級とお名前」
右側面に刻まれた文字はわたしは読めませんでした(北清事變出征者かな?)
裏面は読めませんでした。
建立年、建立者がわかりませんでした。
建立年は、日独戦(第一次世界大戦)が終結した大正7(1918)年11月以降であろうとはわかりますが。
※揮毫者が福島安正帝国在郷軍人会副会長とすれば、大正8(1919)年ではないかと推測しますが。
建立者は、当時の自治体、福木村と思いますが、福木村在郷軍人会馬木分会でしょう。
 「広島の石碑:心と形」発行:広島市教育委員会によると


建立年月日:大正6(1917)年10月
建立由来:
大正3(1914)年9月1日より大正8(1919)年8月31日まで、馬木地区協議会会長として活躍された、河原徳造氏が主体となられて、馬木地区戸数約200戸の全戸から1名宛参加し、紀念碑の石を「末広義雄氏(馬木一丁目)」宅前の温品川から取りよせて運んだ。その時の石工は、吉田高一氏で紀念碑の建立は馬木地区協議会が施工した。
その他、特記事項
1)碑文は第三十四代、長野県出身陸軍大将 福島安正の揮毫によるものである。
2)当時の建立費用は馬木協議会が支出した。
3)建立期間は約十ケ月を費やしたと思われる。
4)紀念碑の全高は5m35cmである。
“馬木地区協議会会長”としていますが、戦前で、揮毫者からも「福木村在郷軍人会馬木分会会長」と思います。
教育委員会の発行というものの現代の役職名に近い協議会という表現を用いるのは間違っているとわたしは思います。’刻まれた文字を読み替えてはいけないとも思っていますから)。
塔に刻まれた文字に関して触れていないのも気になります。
この「広島の石碑」を以前より参照していますが、間違いも散見し、この碑の解説では在郷軍人会という表現を避けているのも気になります。
明治27・8年戦役:
(日清戦争)
1894(明治27)年8月から1895(明治28)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。
朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月、下関で講和条約締結。
明治33年事変:
(北清事変)
1899(明治32)年~1900(明治33)年。列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。
山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(オーストリア)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。北清事変。(義和団事変)。
明治37・8年戦役:
(日露戦争)
1904(明治37)年2月から1905(明治38)年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。
ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米国大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
日独戦争: 第一次世界大戦〔1914(大正3)年7月28日~1918(大正7)年11月11日〕に於ける大日本帝国とドイツ帝国の戦争。
日本は日英同盟に基づき連合国の一員として参戦。
1914年8月23日大日本帝国はドイツ帝国へ宣戦布告。
陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、海軍は南洋諸島のドイツ要塞を次々に攻略し、第一次世界大戦終結とともに日本が勝った形で終結。
東区馬木地区の略沿革
1889(明治22)年4月1日
 1894(明治27)年7月25日
1898(明治31)年10月1日
 1904(明治37)年2月8日
 1914(大正3)年8月23日
1956(昭和31)年3月31日
1974(昭和49)年11月1日
町村制の施行で、高宮郡福木村 (=馬木村+福田村)
~1895(明治28)年4月17日日清戦役:日本と清国の間で行われた戦争
郡制の施行のため、安佐郡が発足し、安佐郡福木村。
~1905(明治38)年9月5日日露戦役:日本とロシア帝国との間で行われた戦争
~(11月7日中国青島の戦いを含む)第一次世界大戦1918年11月11日終結
(安佐郡福木村+安芸郡温品村=)安芸郡安芸町が発足。
安芸町は広島市に編入されました。
2019年になり広島新四国88ヶ所霊場の寺院の入替があり、東区馬木の安楽寺が新しく霊場になったので、お参りし撮影するかと女房に車で連れて行ってもらうことにしたのです。
地図をみると、近くにこの馬木八幡神社が鎮座していることがわかり、参拝することを計画しました。
簡単な道だったはずなのに、参道石段前ではなく馬木八幡神社の社叢沿いに上った(社殿裏側の)ところにある駐車場広場についたので、幸いというべきでしょうここで取り上げた2基の石碑を見ることになりました。
馬木小学校は無く、福木小学校から福木村について調べてみたのです。
19.09.22.裕・記編集

19.09.13.撮影
広島市東区馬木5-1370  馬木八幡神社社殿裏の駐車場
(福木村)戰役紀念・碑 (戦役記念・碑)

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影
正面 基台正面 

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影
 
 塔部正面 左面と正面  塔部裏面 

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影
基部裏面と左側面 右側面

19.09.13.撮影
(碑後ろ側からみました)
(福木村)征清紀念碑
 「広島の石碑:心と形」発行:広島市教育委員会によると
建立年月日:明治30(1897)年9月
建立由来:
明治27・8年の日清戦役に於いて馬木地区より出征した4名の功績を讃え、その戦捷として馬木村が建立した。
その他、特記事項
1)碑は自然石をそのまま使用している。
2)長年月の碑文も朽ち落ちて、殆ど読みとる事が出来ない。
3)裏面は建立後拓本を取る人が多く、現在は真黒にぬりつぶされて、かろうじて、明治30年9月馬木村共立の碑文のみ読みとれる。
4)紀念碑の全高は2m80cmである。
1889(明治22)年4月1日
  1894(明治27)年7月25日
1898(明治31)年10月1日
1956(昭和31)年3月31日
1974(昭和49)年11月1日
町村制の施行で、高宮郡福木村 (=馬木村+福田村)
~1895(明治28)年4月17日日清戦役
郡制の施行のため、安佐郡が発足し、安佐郡福木村。
(安佐郡福木村+安芸郡温品村=)安芸郡安芸町が発足。
安芸町は広島市に編入されました。
明治30年には馬木村という自治体は無く、福田村と合併していたので“福木村建立”の碑でしょう。
共立は建立の印刷ミス?この時代には“建之”と刻まれていたのでは。

この「広島の石碑」を以前より参照していますが、間違いも散見し、この碑の解説では馬木村は間違っていると思います。 

19.09.13.撮影
広島市東区馬木5-1370  馬木八幡神社社殿裏の駐車場

19.09.13.撮影
碑念紀  清征

19.09.13.撮影



軍都・廣島関連施設戦跡など」編



広島ぶらり散歩へ
馬木八幡神社
(福木村)戰役紀念・碑など
 


inserted by FC2 system