(八木細野神社)熊野忠左衛門墓碣銘

  安佐南区八木町の細野神社前に建立されている「熊野忠左衛門墓碣銘」です。
※2014(平成26)年8月20日未明「広島土砂災害」によって定用水碑と共に流失しました。
*碑は、基礎部分を残してさらわれ、43日後約30m東で土砂撤去作業をしていた建設業者が見つけました。
*2017年1月19日元の場所に戻りました。費用約43万円はライオンズクラブの義援金を当てたそうです。
熊野忠左衛門(1791-1873)は、文政9(1826)年父・儀兵衛の跡を継いで庄屋になりました。後の、割庄屋に昇り在勤38年に及びました。
在勤中、私費を投じて坂道を改修し、旅人の通行を楽にする等の篤行がありました。
嘉永3(1850)年の洪水で田畑20町(約20ヘクタール)が流失して大被害を蒙った際には、村民の反対を押し切って堤防の大改修を行い、その後の洪水では難を免れることができ、6町(6ヘクタール)余りの墾田を得るに至りました。忠左衛門没後、村民がその徳を讃え墓碣銘の碑を建立しました。
明治八乙亥(1875)年5月 當忖百姓中造立之
(ぼけつ)
墓碣:
「碣」は円形の石のこと。
墓標の石。墓石。
(めい)
銘:
(1)器物碑などに刻んで、物事の来歴や人の功績を述べた文。
(しょうや)
庄屋:
名主のこと。主に関西での名称。庄役。
(なぬし)
名主:
江戸時代の村方三役の一。村の長で村政の中心であった。土豪その他の有力者が代官に任命され世襲が普通であったが、享保(1716-1736)頃より一代限りとなったり、入れ札(ふだ)で選ぶこともありました。関西では主に庄屋、東北では肝煎(きもいり)といいました。
また、町にも町名主がおり町政を担当しました。
割庄屋: 広島藩では、村ごとにいる庄屋よりも上位の役職として、複数の村からなる「組」を管轄する村役人でした。 (他藩では大庄屋とか大名主と呼ばれる役職に相当し、多くは郡内の有力者から選ばれました)
細野神社前に(桑原)卯之助が開削した八木用水の「定用水碑」と並んで、「熊野忠左衛門墓碣銘」があります。
碑文の文字が薄くなっているばかりではなく、わたし自身の乏しい国語力では読めなかったのですが、広島市教育委員会の資料に碑文の概要が掲載してありましたので参考にしてこの頁を編集しました。
2017年1月20日中國新聞で、定用水碑とこの熊野忠左衛門墓碣銘・碑が復旧されたことを知りました。
復旧後の画像はまだありませんが、流失している処は撮影していましたが、復旧を知ってから掲載しようと思っていましたので、この機会に加えました。
2017年3月8日復旧されたところを撮影し別頁で編集しました。
 17.01.20.更新    10.05.09裕・記編集

10.02.19撮影
広島市安佐南区八木町622  細野神社前

10.02.19撮影

10.02.19撮影
銘碣墓門衛左忠野熊

10.02.19撮影
 広島土砂災害(2014年8月20日)遭った細野神社

15.10.30.撮影
 (流出した二基の碑が建立されていた処)上部に被災した社殿がみえます。

17.03.08.撮影
 (復元)定用水碑と(復元)熊野忠左衛門墓碑銘  (別頁で編集:下段リンクから)



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



広島ぶらり散歩
(八木)細野神社
  定用水碑
  熊野忠左衛門墓碣銘
  細野神社改築記念碑
  官行造林完了記念・碑
(土砂災害から)復旧された定用水碑など


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