|
安佐南区八木町渡場の太田川に過ってあったという「八木渡場」を取り上げています。 |
藩政時代(一般的呼称は江戸時代)雲石街道の要衡で、太田川渡船の最高位(上流)でした。
八木渡場は、雲石路の難所で殆どが徒歩渡しで、両岸の番所に渡賃を払えば、人夫により通行できたそうです。 |
|
出雲石見街道
(雲石路) |
西国街道に沿う広島城下・堺町から北に分岐し、太田川・古川沿いに延び可部宿に至り、さらに可部から根之谷川に沿い上根峠・吉田・三次を通り、赤名越から出雲大社に向かう道と、南原川から可部峠・本地・中山から石見大森銀山に向かう道が分岐していました。
幅員は7尺(2m強)で代々の広島藩主により整備され、萩藩では祖・毛利元就(1497-1571)の墓参のために利用され、吉田往還とも呼ばれました。 |
わたしば
渡し場 |
渡し船の発着する所。渡し。渡船場。 |
|
八木用水を全線歩きながらみてみようと考えた時、当初・定用水(現在の呼称:八木用水)は十歩一から取水していたと知ったのです。その時この近くに雲石街道の八木渡場があったという事を知りましたので、説明板でもあれば撮影してみようと思ったのです。
残念ながら、八木用水の最初の取水場であった十歩一と、八木渡場とも(わたしは的確な場所はわかりませんでしたが)(財)広島市未来都市創造財団文化科学部の資料で、教えていただいた八木渡場の辺りだなと思った付近を撮影しましたので、この頁を編集しました。 |
12.02.20裕・記編集 |