佐東町八木地区(戦没者)慰霊碑

  安佐南区八木の光広神社に1977(昭和52)年建立された「佐東町八木地区戦没者慰霊碑」です。 
表面: 慰霊
裏面: 戦没者芳名(いろは順)
日清及日露戦争5名、支那事変21名、大東亜戦争53名、軍属・義勇隊・学徒動員27名、原爆犠牲者40名
台座: 昭和8(1933)年御神殿造営の際發掘された由緒ある石を碑として御霊を合祀して永久の冥福を祈る。
                     昭和52(1977)年5月吉日 八木地区有志建立
1889(明治22)年4月1日市町村制施行で沼田郡八木村となり。
同(1898)年10月1日高宮郡と沼田郡が統合して安佐郡となり、安佐郡八木村となりました。
1955(昭和30)年7月1日川内村、緑井村、八木村が合併して佐東町となりました。
1973(昭和48)年3月20日広島市に編入され、1980(昭和55)年4月1日政令都市に移行し安佐南区八木となりました。
日清及び日露戦争、支那事変、大東亜戦争、軍属・義勇隊・学徒動員での死没者のお名前が刻まれており、最後に原爆犠牲者という項目を作り40名の方々のお名前が刻まれていましたので、原爆死没者慰霊碑にもなっているということで、「原爆関連慰霊碑」編の中に掲載することに(わたしは)しました。
戦後建立の戦没者慰霊碑としては異例と思える菊の紋章が入っていました。
碑文を読めば1933(昭和8)年という年代が見えましたので、戦前は日清及び日露戦争の「忠魂碑」として建立された石碑であったのが、戦後政府の指示に従い撤去され、後に大東亜戦争そして原爆犠牲者を合祀した慰霊碑として再建されたのだろうと思いましたが。
広島土砂災害
昨(2014)年8月20日未明、局地的豪雨により広島市安佐南区と安佐北区で多数の土石流や崖崩れが発生。
74人が死亡、69人の負傷者をだしました。広島市によると179軒が全壊、217軒が半壊したそうです。
  JR可部線梅林駅近くの大国神社が土砂災害で神社は無事だったようですが、周りが土砂に覆われ、八木用水は土砂に覆われ、どこが用水かわからなくなっているところをニュースでみていましたので、近くの光広神社と境内に建立の慰霊碑に被害が及んでいるかもしれないと心配していたのですが、無事でした。
2015年になりましたがここ光広神社の前を通りまず、梅林小学校に建立されたと聞く広島土砂災害慰霊碑を訪ね頭を垂れました。次に訪れた光広神社は無事で、慰霊碑にも被害がないようでしたので、復興への道のりが順調であることを祈願参拝しました。ここで取り上げている慰霊碑を撮影しましたので、この頁を再編集しました。 
15.11.07.再編集   09.11.17裕・記編集

08.12.29撮影
広島市安佐南区八木3-26-16  (光広神社境内) 

08.12.29撮影

08.12.29撮影
慰霊碑裏面

15.10.30.撮影
 (参道石段を上って、横目で慰霊碑の無事をみたのです)

15.10.30.撮影
(拝殿から慰霊碑をみました)

15.10.30.撮影

15.10.30.撮影
戦没者芳名・板

15.10.30.撮影

15.10.30.撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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