寺山の観音堂(迎接院曼陀羅寺)

  安佐北区可部東に建てられている「迎接院曼陀羅寺(通称・寺山の観音堂)」です。
迎接院曼陀羅寺(ごうしょういんまんだらじ)の観音堂の由来
この観音堂は、正しい名前を迎接院曼陀羅寺といい、本尊十一面観音が安置してあります。
観応2(1351)年3月18日の夜、当地の豪族上原将監という者へ夢のお告げfがあって回忌したと云われ、その後三入庄の地頭熊谷氏が高松城に在住した時、山梨県から本尊をもってきて、五間四方の堂を建てて造り直し寺領三百石を寄附し庇護したといいます。当時この付近には、この曼陀羅寺の他にその末寺として「奥の坊、浄安寺、竹林院、新し坊、報宗坊、地蔵院、谷の坊、南光寺、勝円寺、正観寺、宝蔵寺、谷の坊会下二ヶ寺」の12坊がありました。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、熊谷氏が毛利氏に従って山口県萩に打てってからは庇護者を失って檀家のいない寺となり、12坊のうちあるものは改宗し、あるものは退転して本堂の曼陀羅寺のみが残り、往時の隆盛は失われました。
その後、宝暦7(1757)年正月19日、火災により焼失し本尊・什器も悉く焼亡してしまいましたが(茅葺で)再建され、本尊の十一面観音もいままで通り安置されました。観音堂は昭和47(1972)年4月29日再び焼失していまいましたが、昭和49(1974)年5月19日に再建され現在に至っています。毎年4月17日、18日が縁日です。
観音堂の由来は以上なのですが、現在はかっての末寺、奥の坊、浄安寺など12坊の寺跡は悉く不明ですが、その内のいくつかは地名として残るのみになり、例えば、浄安寺の寺跡は、いまは「じょわんじ」と呼ばれこの観音堂の北東約150mのところにある竹薮の地がそれに当ります。
平成16(2004)年4月吉日記述者三上彦三
可部公民館発行「可部の散策2」に紹介がありましたので、立ち寄ってみました。
説明板が設置されていましたので、この観音堂が曼陀羅寺であったことがわかりました。
由来がステンレス製板に刻まれていました、はじめて訪ねてきたわたしのようなものでも読めば、このお堂の歴史がわかり、御本尊が十一面観音菩薩である事もわかります。墨書きの由来板は往々にして経年変化で読めないものもありますがステンレスであればそれなりの長さでこのお堂の歴史を語り続けてくれるのでないかと思います。
2011年3月交流ウォークの時に、このお堂の近くの方が参加されて居られました。お堂の周りの清掃が為されすっきりしていると話すと、町内会で境内の清掃などをやっておられということで、地域でこのお堂を見守っておられるようです。
被爆70年の2015年10月この観音堂手前の可部地区・原爆慰霊碑を訪ねたのです。
前に立ち寄った上原耳観音堂が2014年8月の土砂災害で上屋が壊れ、耳観音様がむき出しになっていましたので、この寺山の観音堂に被害は及んでいないか心配しながら訪ねました。
100mも離れていない谷には土砂災害の傷跡が残っていましたので、この観音堂は観音さまの御加護があったのでしょう無事のようでした。
17.11.19.更新   10.04.03.裕・記編集

11.01.08撮影
広島市安佐北区可部東4-2-13

11.01.08撮影

11.01.08撮影
本尊:十一面観音菩薩

11.01.08撮影
藤井佐一郎翁頌徳碑と観音堂 観音堂説明板

15.10.30.撮影
お堂には、2014年8月の広島土砂災害は及んでいないようでした

15.10.30.撮影

15.10.30.撮影
(観音堂の近くには2014年8月の広島土砂災害の傷跡が残っていました)



「広島の神社寺院」編



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(可部地区)原爆被爆者慰霊碑
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