延宝蔵・跡碑(嘉登屋・跡碑)

  東広島市西条本町の白牡丹に建立されている「延寶蔵・跡碑」です。
延宝蔵の由来
古記録によると「慶長5(1600)年9月関ヶ原の戦いに島左近勝猛・西軍の謀士の長たりしも戦に敗れ、長男・新吉戦死、次男・彦太郎忠正、母とともに京都に在りしが関ヶ原の悲報を聞き、西走して安藝国・西條に足を止む。彦太郎の孫・六郎兵衛晴正、延寶3(1675)年酒造業を創む」とあります。
延宝3(1673)年よりこの地において、酒造り一途に今日まで生きてきました。
嘉登屋(かとや)の酒として、また天保10(1839)年より白牡丹として生かされてまいりました。
2004年に酒蔵通りをぶらり散歩した時もこの碑をみた記憶があり撮影していたと思うのですが頁としては編集していませんでした。今回酒蔵通りを訪ねたときは独立した頁にしなくてはと思いながら撮影しました。
10.02.13裕・編集

09.11.28撮影
東広島市西条本町9-21  (白牡丹延寶蔵)

09.11.28撮影

09.11.28撮影

09.11.28撮影

09.11.28撮影
鐘楼と薬師如来収蔵庫
左図は、解体前の延宝蔵の断面図を示し、「和小屋」とよばれ、束を介して屋根荷重を梁の丸太材に伝える構法と、茅葺屋根などの日本古来の合掌造りにもちいられる「さす組」という小屋組を併用した独特な構法となっていました。
当時、1階の土間部分で「蒸米(むしまい)」と呼ばれる米を蒸す行程が行われており、1階に八畳程度の和室が6室、2階にも小屋裏部屋が5室ほどあり、杜氏たちの宿直部屋としても使用されていました。
現在でも1675年に建てられた木造の蔵が、間口13間、桁行30間の規模で現存しています。
和小屋(わごや)
小屋梁の上に束を立てて、棟木母屋垂木を架けて屋根を支える日本の伝統的な小屋組。大きい梁間には適さないが、施行が簡便で増改築が容易。
扠首(さす)
棟木などを支えるために合掌形に組んだ材。民家の屋根、社寺建築の妻飾りなどにみられる。

09.11.28撮影
嘉登屋石碑 冥加の水



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