(観現寺)宝篋印塔

  東広島市西条町御薗宇の観現寺に建立されている「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」です。
東広島市史跡  宝篋印塔    指定;昭和53(1978)年11月15日
治承4(1180)年宇治川の合戦に源三位頼政が敗死した後。妻・菖蒲の前は頼政の家人・猪隼太(いのはやた)に守られ安芸国に逃れました。その後頼政を弔うため観現寺を建立したと伝えられます。猪隼太は、名を勝屋右京(しょうや うきょう)と改め、建保4(1216)年7月8日84歳で没したとされています。
宝篋印塔は、元来「宝篋印陀羅尼経」という経典を納めるための供養塔で、後に墓石としても使われるようになりました。
この宝篋印塔は、勝屋右京の墓と伝えられ、“芸藩通志”によれば、塔身の左側面に「勝屋右京墓」、右側面に「建保四丙子年七月八日」と刻まれていたとされますが、現在は風化が著しく、正面の梵字以外判読できません。
広島ぶらり散歩「広島新四国88ヵ所霊場」編を2008年編集して以来まだ満願とはなっていません。
そこで今(2018年)回まだお参りしていない賀茂地区の四つのお寺を訪ねたのです。
観現寺の境内に入った時にここで取り上げた広島市史跡・宝篋印塔の説明板が設置されていましたので見なくてはと思ったのです。
お参りした後、何処にあるのかと探し、護摩堂裏手の小高い丘(とまでは云えない)の処に安置されていました。
17.03.18.裕・記編集

18.03.13..撮影
東広島市西条町御薗宇5311   観現寺護摩堂裏側の小高い処

18.03.13..撮影

18.03.13..撮影
 中央:勝屋右京墓とされる宝篋印塔 (説明版の解説)

18.03.13..撮影



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