こおりはちまんじんじゃ
郡八幡神社

  東広島市西条町寺家に鎮座している「郡八幡神社」です。
※旧称は、福原神社(祭神:伊邪那岐命)だそうです。
祭神: 伊邪那岐命。天之水分神、国之水分神、高龗神、品陀和気命、息長帯姫命、田心姫命、帯中津日子命、湍津姫命、市杵島姫命、素盞鳴命、大山津見神、興津姫命、櫛稲田姫命、興津彦命、波迩夜須彦命
由緒: もと福原神社と称していました。
明治42(1909)年大字寺家字四歩一の郡八幡神社、字龍王山の雨乞神社を当神社に合併し翌(1910)年に郡八幡神社と改称しました。もとの郡八幡神社は大同2(807)年の勧請と伝え、賀茂郡を総轄する大社であったので郡八幡宮を称すという。
往古の祭礼時には郡内所々へ神輿の渡御が行われ、賀茂郡南方村の伊保八幡宮(元賀茂郡黒瀬宗近柳国。現東広島市の伊保山神社)を御宿所としたという。
木造狛犬: 当神社の宝物として古い木造狛犬一対が保存されています。
祭神、由緒は、現場設置の説明板と広島県神社誌に違いがあったので、県神社誌を参照しました。
明治43年に改称したということから寺家地区の行政的歴史はどうなのかと思ったのです。
1889(明治22)年4月1日町村制の施行時に(賀茂郡)寺家村+西条東村=寺西村発足しました。
1939(昭和14)年7月1日西条町+吉土実村+御薗宇村+下見村+寺西村=(新しい)西条町
1950(昭和25)年4月1日西条町から西条東と寺家が分かれて寺西村が発足しました。
1952(昭和27)年4月1日寺西村が町制を施行して寺西町発足。
1959(昭和34)年10月1日寺西町が(賀茂郡)西条町に編入しました。
1974(昭和49)年4月20日西条町+八本松町+志和町+高屋町が合併して東広島市発足。
手打ちそば・出雲屋へそばを食べに来た時、その根際に鎮座しているこの郡八幡神社に参拝しようと思ったのです。
参拝しようとしたとき、寺家会が設置した“寺家の歴散歩道”があったので、頁を編集するかと撮影したのです。
奉納絵馬について神奈川県のHさんにご教授頂きましたので追記しました。
21.06.26.更新   21.05.22.裕・記編集

20.05.24..撮影
東広島市西条町寺家4591

20.05.24..撮影
拝殿:十二坪

20.05.24..撮影
  拝殿正面梁の奉納絵馬
合戦を描いた絵馬ですが平成26(2014)年という新しい絵馬ですが取り上げました。
左の武者、三つ葉葵の紋の甲冑を付けています。右の武者の軍配には武田家の文様があります。
武田信玄と云えば座った姿で軍配で、上杉謙信の刃を跳ねのける図が有名ですが、これは馬に乗っていますので信玄かは定かではないのです(が)。
徳川(家康)と武田(信玄)が戦ったと云えば家康完敗であった三方ヶ原の戦いですがこれが、その図だかはわたしにはわかりません。
 ※ 神奈川県のHさんよりこの絵馬についてご教授いただきました。
『絵馬の絵柄について、ご当地との関係はイマイチ私には分かりませんが、たぶん参考にした錦絵は見覚えがあったので調べてみました。
タイトル:元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖
作者:永島孟斎(別名:歌川芳虎、生没不明)
出版社:澤村清吉
概要:明治時代の3枚組の錦絵
所蔵:浜松市博物館
画像データは、浜松市中央図書館の浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「徳川家康と三方原の合戦」が公的機関が公開しているデータであります。
私が見たことがある限りですが、三方原の戦いで、家康の衣装に三ツ葉葵の家紋が描かれているのは上記の錦絵だけです。
江戸時代には三ツ葉葵や三方原の戦いを浮世絵でハッキリと描けなかったので、この表現は明治時代以降になります。
絵馬は現代に描かれたので、武田信玄とも分かりにくいから軍配も武田菱で描かれたのだと思います。
三方原の戦いは、武田氏の顕彰の意味が含まれるのですが、東広島市と武田氏に何か関係があるのでしょうか?
少し不思議に感じました。』
教えていただいた浜松市中央図書館の公開資料見てみました。
暗い画像でしたので、明るくしてみると、奉納絵馬は簡素化した絵になっていますが、武者と家来、馬の毛色模倣して描かれたようです。
やはり武田信玄戦国時代最強だったと武田氏滅亡後家臣にとりたて家康に忠誠心を求める意味があった?
この辺りも、甲斐・武田氏の分かれで(毛利元就に滅ぼされた)安芸・武田氏の勢力圏にあったことに由来する奉納絵馬の題材になったのかもしれませんが。

20.05.24..撮影
本殿:三間社流造、向拝、唐破風付き(間口三間、奥行二間)



広島の神社仏閣」編



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