(広島大学)「御大典記念樹・碑」「摂政宮殿下御播種之松 ・碑」「如水下座流動不止・碑」

  東広島市鏡山の広島大学工学部慰霊碑横に移設されている「(昭和)御大典記念樹・碑」
同じく移設されている「摂政宮殿下御播種之松 ・碑」です。
同じく移設されている「如水下座流動不止・碑」の三つの記念石碑をこの頁で取り上げました。
  〔下記に詳細を編集しました〕
工学部慰霊碑を巡るのが主目的でしたが、
工学部慰霊碑の周りを歩いているときに出会った石碑(石柱)たちでした。

天皇関連の頁も編集しているので、「御大典記念樹・碑」「摂政宮殿下御播種之松 ・碑」も撮影しました。
「御大典記念樹・碑」「摂政宮殿下御播種之松 ・碑を撮影しているときに、根際にここで取り上げた「如水下座流動不止・碑」も見たのです。
広島大学で42年もの長きに務めておられた方の碑で“如水下座流動不止”という碑銘に万感の思いを込められたのだろうと思いましたので撮影しました。
わたしは2000年頃から原爆関連の慰霊碑を巡りだしていました。
資料をみて、西条に移転した広島大学にも慰霊碑が移設建立されている事は知っていましたが訪ねることはなかったのです。2022年になりましたが理学部卒業の息子に案内してもらったのです。
工学部慰霊碑を撮影しているときにここで取り上げた「御大典記念樹・碑」「摂政宮殿下御播種之松 ・碑」「如水下座流動不止・碑」も観たので撮影しこの頁を編集しました。
  22.01.17.裕・編集

22.12.30.撮影
東広島市鏡山1-4-1  広島大学工学部第2棟・第3棟間の西側

22.12.30.撮影
手前:記念の松? 手前:御大典記念樹碑  奥側:摂政宮殿下御播種之松・碑 その奥:如水下座流動不止・碑
(昭和)御大典記念樹・碑
  東広島市鏡山の広島大学工学部慰霊碑横に(広島市にあった工学部から)移設されている「(昭和)御大典記念樹・碑」です。
※1928(昭和3)年11月この碑の建立当時は、広島高等工業学校でした。
 〔1944(昭和19)年3月28日広島工業専門学校と改称〕
正面: 御大典記念樹
裏面: 昭和三年十一月           昭和3年=1928
職員学生一同
広島大学の前身である広島工業専門学校(後の広島市千田町の工学部)に建立された石柱ということを資料“広島大学東広島キャンパスの石碑の属性と分布”で分かりましたが。
昭和・即位の礼
昭和3(1928)年11月6日、昭和天皇(1901-1989)は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、天皇の乗る六頭立て馬車・香淳皇后(1903- 2000)の乗る四頭立て馬車・皇族代表・内大臣・総理大臣の馬車と続きました。
11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上665名、外国使節92名他、2000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一(1864-1929)が万歳三唱しました。天皇は紫宸殿(ししいでん)の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮で即位の報告をし東京へ戻った。東京に於いても宮中晩餐・夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。昭和の大礼の総予算は当時の金額で1968万3637円50銭5厘とわれています。
工学部慰霊碑を訪ねることが主目的でしたが、その慰霊碑横で見たのがここで取り上げた(昭和)御大典記念樹・碑でした。
天皇関連の碑も撮影編集してきていますので、撮影しました。

ただ、この「御大典記念樹・碑」と「摂政宮殿下御播種之松・碑」との微妙な位置に松の木がありますのでどちらの松かな?と思案するところですが、その松は「摂政宮殿下御播種之松」かなとわたしは推測するのですが。 

22.12.30.撮影
フェニックスの葉・説明板         広島大学工学部慰霊碑標識・碑     広島大学工学部慰霊碑

22.12.30.撮影

22.12.30.撮影
御大典記念樹 昭和三年十一月職員学生一同
摂政宮殿下御播種之松 ・碑
  東広島市鏡山の広島大学工学部慰霊碑横に(広島市にあった工学部から)移設されている「摂政宮殿下御播種之松 ・碑」です。
※1926(大正15)年この碑の建立当時は、広島高等工業学校でした。
 〔1944(昭和19)年3月28日広島工業専門学校と改称〕
正面: 摂政宮殿下御播種之松
他面: 大正十五年             大正15年=1926年
広島大学の前身である広島工業専門学校(後の広島市千田町の工学部)に建立された石柱ということを資料“広島大学東広島キャンパスの石碑の属性と分布”で分かりましたが。
摂政宮殿下〔1921〜1926摂政=皇太子殿下裕仁親王(後の昭和天皇:1901-1989)〕
裕仁皇太子は、1926(大正15)年中国地方三県を行啓(視察)されました。
5月21日軍艦長門で岡山県宇野港へ上陸され、岡山県を行啓。
5月24日〜 福山市、広島県宮島を行啓。
5月26日広島の比治山・御便殿広場から広島市内を展望。
5月30日山口県を行啓されました。
  関連頁:(比治山に建立)皇太子殿下御展望之御趾・碑
工学部慰霊碑を訪ねることが主目的でしたが、その慰霊碑横で見たのがここで取り上げた摂政宮殿下御播種之松 ・碑でした。
天皇関連の碑も撮影編集してきていますので、撮影しました。

ただ、「御大典記念樹・碑」とこの「摂政宮殿下御播種之松・碑」との微妙な位置に松の木がありますのでどちらの松かな?と思案するところですが、その松は「摂政宮殿下御播種之松」かなとわたしは推測するのですが。
種から育てて、もう3年もすれば100年目となるのですが、手入れされてきた松のようですが百年でこの大きさかな?との疑問も残ります(二代目or三代目かなとも)。

22.12.30.撮影
手:前摂政宮殿下御播種之松 ・碑  (向側:その時の松?)

22.12.30.撮影
摂政宮殿下御播種之松
如水下座流動不止・碑(山本博退職記念碑)
  東広島市鏡山の広島大学工学部慰霊碑横に(広島市にあった工学部から)移設されている「如水下座流動不止・碑」です。
正面: 如水下座
流動不止
在職42年記念
山本 博
他面: 1965        1965年=昭和40年      1965-42=1923年(=大正12年)
広島大学が1982(昭和57)年3月31日東広島に移転完了する前の広島市千田町の工学部)に建立された石柱ということを資料“広島大学東広島キャンパスの石碑の属性と分布”で分かりましたが。
下座に位置してはいたが、水のごとく、知識欲は止まることはなかった在職四十二年間であったとでも表現したかったのであろうか?とわたしが思った石碑でしたので撮影しました。
2022-1965=57年。57+42=99。 工学部勤務始まりが22歳として 99+22=121歳
男子最高齢118歳だったので、山本博さんは、すでに故人だと思いますが。
この碑の根際に樹木(樹名がわたしにはわかりません)がありますので、在職42年の記念樹かなと思いましたが、広島市からこちら東広島市へ移植するほどの樹木かなと思い、新しく植樹されたものかもしれないとも思いましたが(下画像)。

22.12.30.撮影
(手前)摂政宮殿下御播種之松・碑  (奥側)如水下座流動不止・碑

22.12.30.撮影
如水下座流動不止

22.12.30.撮影

22.12.30.撮影 
1965 碑根際の記念樹?



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