(広島大学)理学部被爆扉、工学部被爆門柱

  東広島市鏡山の広島大学理学部玄関に取り付けられている「被爆した扉」です。
〔もともとは、広島市千田町(現・中区東千田町)に開校していた広島文理科大学本部の扉でした。〕
  東広島市鏡山の広島大学工学部に設置されている「被爆した門柱」です。
〔被爆当時は、広島市千田町にあった広島工業専門学校(と改称していた)の門柱でした。〕
1949(昭和24)年広島大学の創立(は下記諸学校を包括・併合し)新制大学として誕生。
1929(昭和4)年創立の広島文理科大学。
1943(昭和18)年広島師範学校〔前身・1874(明治7)年創立白島学校〕
1902(明治35)年創立の広島高等師範学校。
1945(昭和20)年設立の広島女子高等師範学校〔前身1887年創立私立山中高等女学校〕
1923(大正12)年設立の広島高等学校〔略称・広高〕
1944(昭和19)年設立の広島青年師範学校〔前身・1922年広島県実業補習学校教員養成所〕
1944(昭和19)年改称広島工業専門学校〔前身・1920年設立広島工業高等学校〕
-以上7校を包括-
1945(昭和20)年1月設立広島市立工業専門学校
-併合-
わたしは2000年頃から原爆関連の慰霊碑を巡りだしていました。
資料をみて、西条に移転した広島大学にも慰霊碑が建立されている事は知っていましたが訪ねることはなかったのです。
昨2022)年暮れ、息子が正月休みで帰ってきて、行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、東広島市に連れて行ってくれと頼んだのです。
すでに昔になりましたが、息子が理学部を卒業したここ広島大学には入学式卒業式でもわたしは来たことがなかったので、工学部に建立されている工学部慰霊碑への案内を頼んだのです。
工学部慰霊碑へ行く途中、息子が学んだ理学部の玄関扉が「被爆した扉」と教えてくれましたので撮影しました。
また、そこから少し行ったところ工学部の門柱も「被爆した門柱」だと云うので、撮影したのです。
23.01.19. 裕・記編集
理学部被爆扉
東広島市に移転している広島大学理学部の玄関扉です。
この扉は、ももとは広島文理科大学本部の扉で、爆心地から≒1,420mで被爆しています。
現在は、平和の扉と呼ばれているそうです。
(広島市中区東千田町にいまも遺る)旧理学部1号館は、1931(昭和6)年に広島文理科大学校舎として竣工しました。
爆心地から1,420mで被爆。外郭を残して全焼しましたが、翌(1932)年9月から講義を本格的に再開し、1949(昭和24)年5月には、学制改革で広島大学に包括され、理学部校舎として使用されることになりました。
1991(平成3)年に理学部が東広島キャンパスに移転してからは、閉鎖されています。
理学部を卒業し修士課程まで学んだ息子に、被爆した扉だと教わったので撮影しました。
2022年12月30日だったので(冬休み中で)玄関付近の扉は施錠してあったので、扉の裏側を撮影できないな〜と云っているわたしだったので、息子はぐるっと裏に回って空いている出入り口がないかと探してくれましたが残念ながらなかったので、表側の画像のみでこの頁を編集しました。

22.12.30..撮影
東広島市鏡山1-3-1 広島大学理学部

22.12.30..撮影
扉の飾りは黄銅メッキ?が全体施されていたようですがいまは一部になっています
工学部被爆門柱
現在の広島大学工学部の赤煉瓦門柱(上には白大理石が嵌め込まれています)です。
この門柱は、広島高等工業学校時代から存在し、1945(昭和20)年8月6日被爆当時は広島工業専門学校と校名を改称していました。
1949(昭和24)年には新制広島大学工学部となりました。
そして、工学部の東広島キャンパスへの移転に伴い現在の場所に被爆した門柱として設置されました。
理学部の被爆した扉を見て、工学部慰霊碑に行く途中、息子がこれも被爆した門柱なのだと云ったので撮影しました。
広島大学web siteに紹介があったので確かに被爆した門柱ということを確認しました。

22.12.30..撮影
東広島市鏡山1-4-1 広島大学工学部

22.12.30..撮影
「廣島大學工学部」の標識は被爆後に設置されたものです



「被爆した建物・構築物」編



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