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東広島市西条町田口に開校している広島新生(しんせい)学園に建立の「広島新生学園慰霊碑」です。
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資料によると
原爆の犠牲になった方々を慰霊し、
新生学園で死没した海外引揚児42名、同・成人引揚者40名。新生学園卒園者2名、その親2名も合祀されているそうです。 |
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慰霊碑正面: |
悔
い
深
し
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燃
ゆ
る
あ
の
日
ぞ
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天
に
舞
う
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心
よ
せ
あ
い
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悲
し
み
の
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あ
ま
た
は
ら
か
ら
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あ
げ
し
も
の
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水
を
捧
げ
て
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せ
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て
も
の
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生
命
な
り
せ
ば
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熔
け
滾
る
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あ
わ
れ
業
火
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側面: |
昭和六十年八月六日 謹建立 昭和60年=1985年 |
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昭和46(1971)年、最初に建立された慰霊碑も遺されています。
八
月
六
日
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昭
和
四
六
年
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深
か
し
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悔
い
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燃
ゆ
る
日
ぞ
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あ
の
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あ
げ
し
も
の
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の
ま
せ
て
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水
を
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分
に
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な
り
せ
ば
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生
命
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熔
け
つ
き
る
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業
火
に
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あ
わ
れ
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慰
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被爆当時、(後の初代園長)上栗頼登さんは広島市(中区)にあった陸軍通信隊の見習士官だった。
1945(昭和20)年8月6日その日は休暇で高田郡吉田町の実家にいた。
被爆後隊に戻り入市被爆。(西区)横川橋のたもとで被爆死した母の横で赤ん坊が泣いるのを見るが助けることができなかった(慰霊碑横にデフォルメされ表現されている?)。また、水筒を持っていたが水を求める大火傷をした者に水を与えたら死ぬと軍医に云われていたので与えられなかった(碑文の“悔い深し”と表現されている?)。
そのような悲惨な光景が孤児の施設をつくるきっかけだったそうです。
いただいた学園リーフレットには、
事業開始以来、引揚孤児300名。原爆孤児・戦災孤児及び一般養護児童1,800名。合計2,100名を養護し現在に至るとあります。 |
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1945(昭和20)年10月 |
原爆孤児、戦災孤児、引揚孤児など収容保護を目的として、
広島市(南区)宇品の暁部隊兵舎の一部を借り、経営主体未定で事業開始。 |
1945(昭和20)年12月 |
戦災援護会広島支部(現在の広島県同胞援護財団)の経営となる。 |
1946(昭和21)年 4月 |
広島市(西区)草津東町、さくら母子寮の一部を借り移転。 |
1946(昭和21)年 4月 |
広島市(中区)基町、旧陸軍野砲部隊跡に移転。 |
1971(昭和46)年 4月 |
広島市の都市計画により、現在地・東広島市西条町に移転。 |
1971(昭和46)年10月 |
広島県同胞援護財団より分離独立、社会福祉法人広島新生学園設立許可。 |
1971(昭和46)年11月 |
新法人の経営となる。児童養護施設:定員80名。 |
2018(平成30)年4月 |
園舎全面改築。児童心理治療施設認可。 |
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関連頁:(裕編集の)野砲兵第五聯隊跡 |
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わたしは2000年頃から原爆関連の慰霊碑を巡りだしていました。
資料をみて、西条に移転した広島大学にも慰霊碑が建立され、(広大近くの)広島新生学園にも慰霊碑が建立されている事は知っていましたが訪ねることはなかったのです。 |
昨2022)年暮れ、息子が正月休みで帰ってきて、行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、東広島市に連れて行ってくれと頼んだのです。
息子が案内してくれた広島大学工学部慰霊碑を巡った後、ここ広島新生学園を訪ねたのです。
事務室で、慰霊碑をお参りし撮影したいとお願いしました。園長先生が案内するということで、上栗(二代目)園長先生に案内していただき、いろいろと説明していただきました。 |
23.01.16.裕・編集 |