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東広島市安芸津町大田にお堂を建て安置されている「太田首なし地蔵」です。
※豊田郡安芸津町時代に町の重要文化財に指定され、東広島市への編入で東広島市の重要文化財に指定されています。 |
東広島市指定 重要文化財 史跡 大田首なし地蔵 1984(昭和59)年2月1日 東広島市教育委員会 |
文治元(1185)年壇ノ浦の戦いで敗れた藤原景清(平景清)は、源平の戦いで死亡した一族の霊を弔うため大田宇井坂(生坂ともいう)地蔵堂を建立しました。
この地蔵は当時の武士の風習として武運の占いのために、景清が石地蔵を試し切りにしたところ、」一刀のもとに首を切り落としたと言い伝えられ、首がないところから首なし地蔵とも言われています。 |
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翌(文治2)年景清は累世の菩提を弔うため、真言宗の僧瑞雨を招いて法泉寺を建立し、そして武運長多々を祈るため亀山神社を建立しました。また、宇井坂峠周辺には、道標、四日市街道、浦辺街道など古い歴史をしのばせるものが多くあります。
・景清と首なし地蔵
藤原景清は、平氏の侍大将躯幹長大な大男で強力を以って聞こえ、伯父の大日坊能忍を殺して悪七兵衛景清と呼ばれるようになったという。
景清の武勇伝については「平家物語」弓流、壇ノ浦合戦の頃に記されている。
景清の平氏一行は壇ノ浦の戦いで破れ、中国山脈を尾根づたいに逃げのび、安芸国下三永村の福城寺をめざして、苦旅を続け、源氏に追われて三津村に入ったが、平氏の勢力範囲であった三津村にも源氏の追討軍が待ちかかまえていたので、立花村を通って小畑村に潜入し、その後大田村の宇井坂に籠城した。
そして文治元年、文治2年地蔵堂、法泉寺、亀山神社を建立し景清を城主として大田村は平和な日々がしばらく続いた。
しかし、平家再興を願う景清はこの地にとどまらず単身西国へ向かった。
その後、景清の行跡は詳らかでなく、山口県美祢郡美東町にある景清洞に一時身を隠したという伝説がある。
建久6(1195)年景清は東大寺供養に上路した頼朝(1147-1199)を暗殺しようとしたが果たされず捕らえられ斬首の刑にあうが、日頃信仰する清水観音の加護により助かり、以後復讐の念を断ち西国に下り八十三歳で往生したという。
八月になると毎年首なし地蔵のお祭りがある。
昔から諸願成就、諸病平癒、とくに眼病に対して霊験あらたかであるといわれ現在も信仰する人が多い。 |
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平景清(たいらのかげきよ:?-1196)を字引で引けば、
『平安末期の武将。藤原忠清(?-1185)の子。
1180(治承4)年の北陸道における木曽義仲(1154-1184)との戦いに平家軍として参戦、続く1184(元暦元)年の一ノ谷の戦いにも奮戦したが敗れた。翌(文治元)年の屋島の戦いで、武蔵国住人美尾屋十郎の兜の錣(しころ)をとった景清は、「是こそ京童べのよぶなる上総悪七兵衛(かずさあくしちびょうえ)景清」と名のった(平家物語)。彼は叔父にあたる大日能忍(だいにちのうにん)を早合点から殺してしまい、悪七兵衛といわれていた。
壇ノ浦における平氏滅亡後も生き延びた景清は、平氏再興を図る知忠(ともただ:1180-1196)〔知盛(とももり:1152?-1185)の子)の挙兵に加わった。
その後1195(建久6)年東大寺供養に上洛した源頼朝(1147-1199)に降り、八田知家(はったともいえ:?-?)に預けられたが、やがて飲食を断って死んだという。』 |
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伝承によれば、名刀と云われる"あざ丸”の所有者であったそうです。
実在したとはいえ 生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されているそうで、ウィキをみるとここで取り上げた安芸国大田村などの伝承の記述はありません(ので)。 |
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国交省広島国道事務所の資料で取り上げていますので参照しました。
『国道185号沿線の見どころ 大田首なし地蔵
(東広島市安芸津町、井坂峠)平家の武将が一族を弔うために建てたが、武運を占おうと試し切りをしたため首がないと伝えられる首なし地蔵。
このあたりは浦辺道と呼ばれる山越えの難所で、その面影を今も残している。』と紹介しています。 |
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1889(明治22)年4月1日:
1943(昭和18)年1月1日:
2005(平成17)年2月7日: |
町村制の施行で、賀茂郡早田原村(=風早村+大田村+小松原村)。
賀茂郡三津町+早田原村+豊田郡木谷村=豊田郡安芸津町発足。
東広島市に編入。(東広島市安芸津町となる) |
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まだコロナ禍の2023年黄金週間も終わり、人出もひと段落しただろうと、息子夫婦に安芸津町まで連れてきてもらったのです。
安芸津から安芸区のわが家に帰るのに昔携わった安芸津町立住宅(RC造アパート)の現場を通ることにしたらここで取り上げた「首なし地蔵」があるとグーグルマップを見て息子がいうので立ち寄ってお参りしたのです。 |
24.05.25..裕・編集 |