ああ戰艦大和之塔

  呉市宮原の“歴史の見える丘”に建立されている「戰艦大和之塔」です。
戦艦大和を建造した旧呉海軍工廠を望むこの地に、1969(昭和44)年の第30回大和進水日(8月8日)を記念して呉大和会により建てられました。大和の艦橋をかたどった塔で、主砲徹甲弾も展示されています。
     建塔の由来
戦艦大和は、この塔の左下方に見える造船々渠で、昭和12(1937)年11月仮称第一号艦として起工、昭和15(1940)年8月8日機密裡に進水、翌(1941)年12月16日竣工、直ちに聯合艦隊旗艦として太平洋戦争に歴戦、昭和20年4月7日国民の全く知らぬ内に、乗員3千余名と共に九州西南海中に姿を没した空前絶後の大戦艦でした。
その頃(1940年)までの海戦は、敵弾が届かない遠距離からの先制攻撃で勝敗を決しようとしていました。大和の主砲は口径46cm、長さ1.98m、砲弾長さ1.98m、重さ1.46t、着弾距離42,000m(この地から岩国附近まで飛ぶ)世界無比の巨砲で、この大きさが大和の秘中の秘でした。
巨砲三門をならべた砲塔は直径13m、重量2,700余t、もあることなどから特別に設計されたことで、幅(最大幅36.9m)が広くなり、全長263m、排水量(公試状態)69,100tを越えましたが、(全力)27.46ノットの高速艦でした。
建造には5万を数えた呉海軍工廠の従業員が4箇年余の短期間で、延約300万人の力と、当時1億1千万円の巨費ももって完成したのです。
昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲、続くマレー沖海戦で、飛行機魚雷が容易に大戦艦を撃沈できることを、皮肉にも日本海軍が実証して自ら大艦巨砲至上の夢を破り、やがて戦局不利を来し、敵の制空権下沖縄の危急を救うべく、航空戦力を伴わないで、大和は特攻艦艇旗艦として燃料片道再び生きて帰らぬ覚悟をもって出撃し、その持てる巨砲の猛威を発揮しようとしたが、雄図空しく南冥の海に護国の華と散ったことは誠に遺憾の極みでした。
然しながら、明治維新以来八十年間、日本海軍が研究を積み重ねて来た製鋼、機械、電機等の重工業並びに各種産業 殊に造船技術は戦後いたはやくその実力を現し、いまやわが国は造船王国として世界に雄飛するに至っています。これまことに「大和は沈んでも その技術は沈まなかった」といわれる所以です。

軍艦大和は日本人の手で設計し、呉海軍工廠において建造された見地からこれを生んだ呉海軍工廠跡を一望できるこの高台に全国大方有志諸賢の協賛を得て記念塔を建設し、もって、平和を念願しつつ先人苦心の業績をたたえ、その悲愴な最期を偲んでこれが霊を慰め、永くその栄誉を顕彰しようとするものです。
昭和44(1969)年8月8日戦艦大和第30回進水記念  呉大和会発起人8名
ここ「歴史の見える丘」は過去何度も横を通り過ぎた事はありましたが、今回正岡子規の句碑をみるために立寄ったのです。大きな面積の公園ではありませんでしたが、見るべきもの(記念碑等)が建立されていました。
その中の一つが、この「噫戰艦大和之塔(ああせんかんやまとのひ)」でした。狭い場所でしたので、正面から全姿を(わたしのデジカメでは)撮影できませんでした。
11.11.18裕・記編集

11.08.16.撮影
広島県呉市宮原5 歴史の見える丘  

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影
軍艦大和主要々目表(新造当時)
戦艦大和艦戦歴表
戦艦大和主砲四六糎四五口径砲身図

11.08.16.撮影
戦艦大和主砲徹甲弾(てっこうだん) 直径46糎(cm)、長さ1米98糎、 (施工業者等記録板)

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影



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