(呉・歴史の見える丘)正岡子規句碑

  呉市宮原の“歴史の見える丘”に建立されている「正岡子規句碑」です。
呉かあらぬ春の裾山灯をともす
この句は、明治28(1895)年3月9日に、友人古嶋一雄(古島一雄:1865-1952)が海軍従軍記者として、軍艦松島に乗組んで出征するのを見送るため、呉を訪れた正岡子規(1867-1902)が詠んだ三句のうちの一句です。
当時は広島と呉を結ぶ鉄道は未開通だったので、子規は宇品港から船で呉の川原石港へ向いました。呉軍港入口のウルメ島附近にさしかかった時、正面に見える休山山麓の日暮れの情景を詠んだ一句と思われます。
この句碑は、昭和33(1958)年12月に宮原地区有志により約90m南西の交叉点中央部に建立されましたが道路改良のため昭和53(1978)年に現在地へ移設したものです。なお、句碑の文字は子規真筆を写真版から復刻したものです。
1895(明治28)年初め、日清戦争への従軍が内定。その時、広島大本営に履歴書などを提出するため同(明治28)年3月に広島市に滞在し、その合間に1泊2日で呉を訪れました。子規が呉で投宿したのは一度だけで、その時詠んだのは「のどかさや檐端(のき・ば)の山の麥畠(むぎ・ばたけ)」。呉港と題し「大船や波あたゝかに鴎浮く」、「呉かあらぬ春の裾山灯をともす」を詠んだそうです。
1894(明治27)年夏、日清戦争が勃発すると、翌(1895)年4月近衛師団つきの従軍記者として(清国)遼東半島に渡ったものの、上陸2日後に下関条約が調印されたため、同(1895)年5月第2軍兵站部軍医部長・森林太郎(鴎外:1862-1922)等に挨拶をし帰国の途につく、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷しました。のちに脊椎カリエスとなり、死ぬまでほとんど病床に釘づけになりました。
呉駅前の圓鍔勝三作品をみて、次はこの正岡子規の句碑を訪ねました。
今回は女房運転の車で行きましたが、歴史の見える丘前ではなく「子規句碑前」というバス停があるほどですから呉観光のひとつとなっているのでしょう。
わたしは、広島市、廿日市市・宮島、尾道市の正岡子規の句碑をみてきましたので呉も見なくてはと思っていたのです。説明板を読むと三句詠んだそうですから他の句碑も訪ねなくてはと思っているところですが。
11.11.20裕・記編集

11.08.16.撮影
広島県呉市宮原5 歴史の見える丘  

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影






























  

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影



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