萬葉集史蹟長門島之碑

  呉市倉橋町本浦桂浜に建立されている「萬葉集史蹟長門島之碑」です。
-萬葉集巻第十五-
天平八(736)年丙子夏六月遣新羅使(けんしらぎし)が安芸国長門島に停泊したときの歌や舟出の歌が詠まれています。
 安藝国長門島船泊磯邊作歌五首
   
石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けバ都し思ほゆ:この一首は大石蓑麿(作:巻15-3617)
   
山河の清き川瀬に遊べども奈良のみやこは忘れらねつも    (巻15-3618)
   
磯の間ゆたぎつ山河絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて    (巻15-3619)
   
恋繁み慰めかねてひぐらしのなく島かげに廬(いほり)するかも    (巻15-36120)
   
我が命を長門の島の小松原いくよをへてか神さびわたる    (巻15-36121)
 従長門浦船出し夜仰観月光作歌三首
   
月よみの光を清ミ夕なぎに水手(かこ)の声よび浦みこぐかも    (巻15-36122)
   
山の端に月かたむけば漁(いさり)する海人のともしび沖になづさふ    (巻15-36123)
   
吾れのみや夜船ハこぐと思へれば沖邊の方に楫の音すなり    (巻15-36124)
天平八(736)年遣新羅使の安藝国長門島に泊て詠ゼる和歌八首載せて萬葉集にあり倉橋嶋は八剣(やつるぎ)神社文明1十二(1480)年の棟札に長門島と記され長門崎、長門口の地名も存すれバ長門島のその古名たるを疑ふべからず、本浦は前方に小島連りが風を避け舩を泊するに適すると共に萬葉時代までは遣唐使船の造られし地にして江戸時代まで造船を以て天下に著聞せり千有餘年前韓土に使せし人ゝの吟詠にのれる瀧つ瀬も名残を存し神祠及び松原は今も昔ながらの風趣を傳へて懐古の情うたい切なるを覺ゆ
     紀元二千六百三年(1943年=昭和18年)   
           廣島文理科大學教授 栗田元次撰  廣島高等師範学校講師 井上政雄書*
(いのうえ けいえん)
井上桂園:
(1903-1997)
書家、広島大学教授。岡山県吉備郡薗村(現・倉敷市真備町市場)生まれ。本名・政雄。岡山師範学校本科二部卒業。1922(大正11)年(史上最年少で)文検習字科予備試験合格。1939(昭和14)年広島高等師範学校助教授、文部省委嘱で国定教科書執筆(〜1943)。1945(昭和20)年8月6日昭和町の自宅で被爆。1949(昭和24)年新制広島大学教育学部教授兼務。1951(昭和26)年小中・高の検定教科書執筆。1972(昭和47)年全国大学書道学会会長、日本書道教育学会の名誉会長。
(瀬戸内)海に向かって建立されていますので、最初にみたのがこの碑の裏面で、昭和19(1944)年9月建立と刻まれていましたので、無条件降伏を受託した前年(敗戦も色濃かった時期)なのだと思い、この大きな石碑は何の碑だろうと思ったのです。
正面にまわってみました。「萬葉集史蹟長門島之碑」と刻まれている碑面をみた時、万葉の浪漫を伝えるこの碑と戦時中との対比に(わたしは)思いをはせました。
碑銘の書(揮毫者)が井上正雄と刻まれているのをみた時、後に書家として有名になった井上桂園なのだと思いました。揮毫した年に助教授になったのですがまだ講師という立場でも書を依頼されるだけの輝きを持ち、認められていたのだろうと思い、この頁でも碑面を拡大したものを掲載しました。
11.11.12裕・記編集

11.08.16.撮影
呉市 倉橋町本浦 桂浜

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影

11.08.16.撮影
碑文にある「本浦は前方に小島連りが風を避け舩を泊するに適する」をみました



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「その他」編
(書家など揮毫関連)



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