(呉市立美術館玄関横)正岡子規句碑

  呉市幸町の呉市立美術館玄関前に建立されている「正岡子規句碑(呉港)」です。
「大船や-」の句碑について       1968(昭和43)年9月(19日*)  呉市入船山記念館
  この句は、明治の俳聖 正岡子規(1867-1902)が1895(明治28)年当時の新聞「日本」の従軍記者として廣島に滞在中海軍に従軍する同社記者・古島一雄(一念:1865-1952)を見送って3月9日呉軍港を訪れ一泊、その時の感懐を詠んだものです。
子規全集に「九日一念を送りて呉港に遊ぶ。春雨粛々として分捕の軍艦三艘はものうげに浮び、無心の間、鴎は埠頭に飛び廻れり」と誌されています。
しかしながら詩情豊かなこの句の風情は軍港以前、以後を通じ、変転流動極まりない歩みをつづけた呉港の盛衰にもかかわらず、今尚奇しくも永く生きつづけている感じがします。
これまでもしばしば建碑の議がありましたが、実現せず、偶々明治百年(1968年)を迎え、このたび呉俳句協会の好意により郷土史料館として生まれかわった子の地を撰び、昔の呉港を望む丘に、子規自筆の碑を建立、本市の文学史を飾るものとして、保存顕彰することになったものです。
*子規忌(しきき):正岡子規の命日。9月19日。糸瓜(へちま)忌。獺祭(だっさい)忌。[季語・ 秋]
正岡子規 (まさおかしき:1867-1902)
俳人・歌人。伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)生れ。帝国大学文科大学国文科中退。本名:常規(つねのり)。別号:獺祭書屋(だっさいしょおく)主人・竹の里人。
俳句革新に着手し、俳誌「ホトトギス」により活動。また、「歌よみに与ふる書」で和歌改革を主張。写生文も提唱した。門下に高浜虚子(1874-1959)・伊藤左千夫(1864-1913)などを輩出。
句集「寒山落木」、歌集「竹の里歌」、俳論「俳諧大要」など。
1895(明治28)年初め、日清戦争への従軍が内定。その時、広島大本営に履歴書などを提出するため同(明治28)年3月に広島市に滞在し、その合間に1泊2日で呉を訪れました。子規が呉で投宿したのは一度だけで、その時詠んだのは「のどかさや檐端(のき・ば)の山の麥畠(むぎ・ばたけ)」。呉港と題し「大船や波あたゝかに鴎浮く」、「呉かあらぬ春の裾山灯をともす」を詠んだそうです。
1894(明治27)年夏、日清戦争が勃発すると、翌(1895)年4月近衛師団つきの従軍記者として(清国)遼東半島に渡ったものの、上陸2日後に下関条約が調印されたため、同(1895)年5月第2軍兵站部軍医部長・森林太郎(鴎外:1862-1922)等に挨拶をし帰国の途につく、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷しました。のちに脊椎カリエスとなり、死ぬまでほとんど病床に釘づけになりました。
呉市・美術館通りの呉市立美術館玄関横に建立されている、「正岡子規の句碑」です。
2011年歴史の見える丘に建立の正岡子規句碑の頁を編集している時に、ここ呉市立美術館にも句碑が建立されていることを知りましたので、美術館通りを訪ねた時に、この正岡子規句碑もみなくてはと思っていたのです。
8月訪ねた時碑面にこぼれ日が当たっていました、9月訪ねた時は曇で碑面の文字がわかるように思いましたので再度碑面を撮影しました。
2009年から足掛け3年に亘ってNHKで放送されたテレビドラマ「坂の上の雲」をみていたのです。その中で正岡子規を演じていた香川照之(1965-  )が、正岡子規というと思い浮かんでしかたないわたしですので、この句碑とは直接的に関係しませんが記述しました。
13.09.23.裕・記編集

13.08.27.撮影
呉市幸町入船山公園内    呉市立美術館玄関横

13.09.06.撮影




























※鴎は碑には
  區+鳥とあります

13.08.27.撮影

13.08.27.撮影

13.08.27.撮影



「文学碑など」編



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呉市・美術館通り(呉市立美術館関連)
(美術館玄関横)正岡子規句碑
(美術館ロビー)ブールデル:弓をひくヘラクレス
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「呉市」編


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