(アレイからすこじま)正岡子規句碑

  呉市昭和町の“アレイからすこじま公園”に建立されている「子規句碑(従軍する人を送る)」です。
2011(平成23)年7月17日呉市・中本克州副市長、松山市立子規県博物館・竹田美喜館長など関係者約50人が集積して除幕式が行われたそうです。
句碑には、“従軍する人を送る”と題しての俳句が刻まれています。
子規は、明治28(1895)年3月9日友人(先輩記者)古嶋一雄(古島一雄:1865-1952)が海軍従軍記者として、軍艦松島に乗組んで出征するのを見送るために呉を訪れています。
句碑は、子規直筆を写し取った高さ≒1m、幅1.6mの倉橋産の桜御影石で、別名国会議事堂に使われた「議院石」だそうです。
正岡子規 (まさおかしき:1867-1902)
俳人・歌人。伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)生れ。帝国大学文科大学国文科中退。本名:常規(つねのり)。別号:獺祭書屋(だっさいしょおく)主人・竹の里人。
俳句革新に着手し、俳誌「ホトトギス」により活動。また、「歌よみに与ふる書」で和歌改革を主張。写生文も提唱した。門下に高浜虚子(1874-1959)・伊藤左千夫(1864-1913)などを輩出。
句集「寒山落木」、歌集「竹の里歌」、俳論「俳諧大要」など。
1895(明治28)年初め、日清戦争への従軍が内定。その時、広島大本営に履歴書などを提出するため同(明治28)年3月に広島市に滞在し、その合間に1泊2日で呉を訪れました。
子規が呉で投宿したのは一度だけで、その時詠んだのは「のどかさや檐端(のき・ば)の山の麥畠(むぎ・ばたけ)」。呉港と題し「大船や波あたゝかに鴎浮く」、「呉かあらぬ春の裾山灯をともす」を詠んだそうです。
1894(明治27)年夏、日清戦争が勃発すると、翌(1895)年4月近衛師団つきの従軍記者として(清国)遼東半島に渡ったものの、上陸2日後に下関条約が調印されたため、同(1895)年5月第2軍兵站部軍医部長・森林太郎(鴎外:1862-1922)等に挨拶をし帰国の途につく、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷しました。
のちに脊椎カリエスとなり、死ぬまでほとんど病床に釘づけになりました。
ここ“アレイからすこじま”公園に正岡子規の句碑が建立されていると云う事で、訪ねました。
広島新四国八十八ヶ所霊場第46番萬願寺を巡拝して(呉市)宮原地区からここ昭和町地区の街をぶらり散歩しながらきました。すでにデジカメ電池が残量僅かを示すマークが出ていましたので、ここで取り上げた正岡子規句碑を中心に撮影してバッテリー容量切れになりました。
22.06.02.更新   13.10.10.裕・記編集

13.08.27.撮影
広島県呉市昭和町    「アレイからすこじま」公園

13.08.27.撮影

































13.08.27.撮影
(くさまくら)
草枕:
《旅先で、草で仮に編んだ枕の意から》
旅寝すること。旅先でのわびしい宿り。くさのまくら。

13.08.27.撮影

13.08.27.撮影

21.05.06.撮影
(東屋側が表面)

21.05.06.撮影

21.05.06.撮影
平成23年6月吉日   寄贈者:呉石材合資会社。設置者:正岡子規句碑建立実行委員会



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