(広公園) 賀谷侑翁頌徳碑

 呉市広大新開の広公園に建立されている「賀谷侑翁頌徳碑」です。
*賀谷侑翁顕彰会が昭和51(1976)年5月建立。
  題字は、宮澤喜一(外務大臣1974-1976年9月。総理大臣1991-1993)書
 宮沢喜一 (みやざわきいち:1919-2007)
政治家。東京の生まれ。東京帝国大学法学部政治学科卒業。選挙区(と本籍)は広島。
1942(昭和17)大蔵省入省。サンフランシスコ講和会議などで活躍。1953(昭和28)年参議院議員当選。1967(昭和42)年衆議院議員に鞍替え。通産相・外相・蔵相を歴任し、1991(平成3)年首相に。1993(平成5)年自民党分裂で野党提出の内閣不信任案が成立し衆議院解散。続く総選挙で大敗し退陣。自民党は結党以来初の下野。1998(平成10)年から2001(平成13)年まで蔵相・財務相に再任。2003(平成15)年11月政界引退。
(下記碑文はわたしが読んだ大要ですので碑文のままではありません)
賀谷翁は、明治25(1892)年10月1日旧広村名田に生まれ28歳で広村会議員となり呉市合併後は市議会議員となり通算30年間村市政界で活躍。昭和22(1947)年からは6期24年間県議会議員に挙げられ長きにわたって郷土の発展に貢献されました。
村議時代は広海軍工廠の受容整備、呉市への合併問題に挺身対処。市議時代には戦中戦後の多難な収束と復興に尽くされました。県議時代は副議長、総務土木常任委員長、決算・臨海工業地帯都市対策・公害環境対策等の特別委員会の各委員長を歴任広島県の復興開発に寄与、呉市には転換法協議会長等に任じて平和工業港湾都市として各施策に寄与されました。昨(昭和50)年正解を勇退。勲三等瑞宝章を這拝受。温厚謙虚で誠実事に当たり識見高く実行力に富み公共奉仕の念篤く徳望万人の仰ぐところで、有志相謀ってこの碑を建てました。
       昭和51(1976)年3月  賀谷侑翁顕彰会
今(2017年)回広公園を訪ねたのは、公園内に建立されていると資料で知った「頼山陽文学碑」を撮影することでした。
広い公園でも端からぐるっと公園を回れば探せるだろうとたかをくくっていました。
最初に出合ったのが「賀谷侑翁頌徳碑」でした。近づき見ると外務大臣宮澤喜一(後の総理大臣)の揮毫でしたので、撮影しました。
県会議員であった賀谷が、(選挙区が違う)広島7区の宮沢に揮毫を依頼した詳しい経緯は碑文からはわかりませんが、参議院時代の選挙で繋がりができていたのかと思ったりしました。
広公園で最初に出合ったこの碑、植樹に囲まれるような(隠すような)状態をなぜかなと思いながら撮影しました。
17.06.30.裕・記編集

17.06.17.撮影
広島県呉市広大新開1-7   広公園    

17.06.17.撮影

17.06.17.撮影
外務大臣 宮澤喜一書(印)

17.06.17.撮影

17.06.17.撮影
(裏面に碑文)

17.06.17.撮影



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



広島ぶらり散歩へ
広公園
賀谷侑翁頌徳碑
松本勝太郎翁頌徳碑
(藤田・岩西・大洲三君)頌徳之碑
頼山陽文学碑
圓鍔元規作「理想」
宮田洋子作「風の舞」
郵便創業百年記念石柱
殉職者之碑


「呉市」編


inserted by FC2 system