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呉市広大新開の広公園に建立されている「(藤田讓夫・岩西健造・大洲順道)頌徳之碑」です。
*旧広村にゆかりの三氏を顕彰して建てられた碑です。 |
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三君の相率により(廣村は)天下の模範村となりました。
[明治43(1910)年全国一の模範村として内務省から表彰される]
新海軍工廠等の創設で、昔の形勢と比べようもない村になり、三君の精神は永く伝えるべく郷人相謀りこの碑を建てる
[大正10(1921)年呉海軍工廠広支廠として開設、大正12(1923)年広海軍工廠となる]
昭和11(1936)年11月3日建立されました。
貴族院議員麝香間祗候従一位勲一等侯爵淺野長勲(1842-1937)御篆額
貴族院議員麝香間祗候正三位勲一等法學博士松井茂(1866-1945)撰文
正七位勲六等佐野高藏謹書 |
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藤田讓夫: |
広村戸長村長在職40余年財政改革、教育刷新。農業土木を興す。
藍綬章を賜り勲六等に叙せられる。
大正6(1917)年8月11日逝く村葬享年69歳。 |
岩西健造: |
仏門に帰依 広村助役村長等在任約40年。
藍綬章を賜り勲八等に叙せられる。
大正13(1924)年3月16日逝く村葬享年68歳。 |
大洲順道: |
廃佛毀釋が起こった時は教部省設置に努め出仕した後帰郷。
常に仏教を公共に導入し専德寺(広長浜)を復興、本派本願寺の要職に当たる。本山の最高褒賞を授けられる。
大正11(1922)年2月6日逝く村葬享年80歳。 |
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今(2017年)回広公園を訪ねたのは、公園内に建立されていると資料で知った「頼山陽文学碑」を撮影することでした。
広い公園でも端からぐるっと公園を回れば探せるだろうとたかをくくっていました。グラウンド端の方をL字に回ったところでここで取り上げた大きな石碑をみたのです。 |
碑文の最初の方に藤田の名がありましたので、藤田頌徳の碑かと思ったのですが、撮影した碑文を読めば、明治後期から大正の同時代に広村の三賢人と評されたという藤田讓夫、岩西健造、大洲順道、三君の頌徳之碑でした。
題字を揮毫した(広島藩最後の殿様であった)浅野長勲が貴族院議員であったことは知っていましたが「麝香間祗候」という言葉とともにはじめて知りました。 |
17.07.01.裕・記編集 |