ひろむら しんこんひ
広邑新墾碑

 (現在は)呉市広古新開(ひろ こしんがい)の広市民センターに建立されている「廣邑新墾碑」です。
“呉市設置の説明板などの資料”によると
『呉市指定文化財第11号 史跡 昭和41(1966)年10月1日指定。
現在、広市民センター前にあるこの広邑新墾碑は、広村(廣村)の大庄屋・多賀谷武兵衛が独力で文化8(1811)年に、弥生新開の開拓事業を竣工し、39町(約4,720㎡)あまりの新田を造成した功績を、文化15(1818)年に頼山陽(1780-1832)が選書したものです。
多賀谷武兵衛は、蒲刈島から広村に元禄年間(1688-1703)に移り住んだ多賀谷氏の四代目にあたり、父・仙兵衛のあとを継いで、寛政7(1795)年に広村庄屋を命ぜられ、ついで文化5(1822)年に大庄屋を命ぜられ、文政7(1824)年まで30年間村政にたずさわった人です。
また、頼山陽の筆による金石文は数少なく、珍しいもので、碑文は開墾碑文の模範として諸書に引用されている名文です。
碑文を選書したのは、文政2(1819)年5月のことですが、碑刻には文化15(1818)年3月としているのは、藩府を憚ることがあり、表面をとり繕ったものだろうといわれています。』とあります。
 
説明文にある広島藩府を憚ったという事を年表から考えてみましたが。
1818(文化15)年2月5日父・春水三回忌のため帰省。
1818(文化15)年3月6日九州旅行出発、1819(文政2)年2月4日広島に帰省。
1819(文政2)年3月11日母を伴い帰京(嵐山、吉野等に遊ぶ)閏4月母を広島まで送る。
 
「説明板」呉市教育委員会設置 「碑位置について」広郷土史研究会設置
此の廣邑新墾碑はもとは、(弥生新開の)稲荷橋の西畔に建てられたものを、その土地が道路用地になったため昭和38(1963)年に(公民館の根際に)移設されたものです。広郷土史研究会
今(2017年)回呉市広を尋ねたのは、広公園に建立という「頼山陽文学碑」とここ広市民センターに建立という「広邑新墾碑」を撮影することでした。
JR広駅で降り広公園(呉市総合体育館前)で「頼山陽文学碑」などをみて国道185号線をJR新広駅の方へぶらりぶらりと歩き、広市民センターの建物だなと思ったときに見えたのがこの碑でした。
“呉市の文化財”というweb siteでこの碑の画像がありましたのでこれだなと近づき見ました。
 * 碑面を撮影して「廣邑新墾碑」と刻まれているなとわかりました。
名文だという碑文を読み下せないのが情けないところです。

最後の『・・・襄子成撰〔弁〕書』〔弁〕は旧字の「辨」、「辯」、「瓣」でもなく弁とわたしには見えるのです。
弁を字引で引くと、2 けじめをつけて処理する。5 理屈を立てた議論。10 (「辨」の代用字)事を処理する。などとあるので、碑文を撰じ、事を処理して、書いてみたとなるのでしょうか?
『碑刻には文化15(1818)年3月としているのは、藩府を憚ることがあり、表面をとり繕ったものだろうといわれています。』
山陽の年表をひも解けば文化15(1818)年3月としている時は九州旅行(遊行)を行っている時で、その時は広島藩領内に居たとしなければならない何かの理由があったのかもしれませんが(わたしには)よくわかりません。
17.07.08..裕・記編集

17.06.17.撮影
広島県呉市広古新開2-1-3 広市民センター





















17.06.17.撮影
 




頼山陽と云わず、襄(のぼる)が名、字が子成と云っていますね 碑名「廣邑新墾碑」と刻まれています

17.06.17.撮影
(碑裏側:文字なし)

17.06.17.撮影

17.06.17.撮影
(碑の前は、国道185号線です)



「頼山陽関連」編


「その他」編
土地区画・開発関連記念碑など



広島ぶらり散歩へ
広邑新墾碑
(呉市天然記念物)蘇鉄
大林源蔵翁頌徳碑
松本隆司作「奉仕」
長岡強作「若人」


「呉市」編


inserted by FC2 system