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呉市仁方錦町の錦公園前の河川緑地に建立されている「常磐橋架換發起人金沢量三君功勞碑」です。
※ここで取り上げる“常磐橋架換發起人金沢量三君功勞碑”の「ときわ」と
現在橋である常盤橋「ときは」は発音的は同じですが、現在の橋では、盤〔皿〕ですが、この碑では磐〔石〕と漢字が違っています。 |
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正面:常磐橋架換發起人金沢量三君功勞碑
裏面:明治三十二年三月三日 仁方■・・・・・■大畠區■・・・■ 石工(名前)
側面:-読めません-
側面:世話人(名前) |
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この碑の建立年(を正確には読めていないかもしれませんが)明治32(1899)年とわたしには読めるようでした。
それまでの簡易な橋だったものを木橋として架替た記念碑ともいえる石柱だろうと思いましたが。 |
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1889(明治22)年町村制施行時、賀茂郡仁方村。
1907(明治40)年1月1日町制施行で賀茂郡仁方町。
1941(昭和16)年4月21日仁方町、広村が呉市に編入しました。 |
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“仁方歴史マップ”がNETでも公開されているマップとわかりましたので、機会を見つけいつかは仁方のまちをぶらり散歩してみようと思ったのです。
主目的になったのが「(呉市仁方)原子雲の下で」発刊記念・碑でしたが、このマップに「常磐橋架換發起人金沢量三君功勞碑」は紹介がないので、この碑に関する詳しいことはわたしにはわかりません。 |
相原嚴頌徳碑を撮影して、対岸の(旧)亀甲ヤマト醤油醸造場の煙突を遠くから撮影しようとしたとき、このひょろ長い石柱に気が付いたのです。
(旧)亀甲ヤマト醤油醸造場を撮影しながら橋(常盤橋)を渡ってこの碑に近づくまでは何の碑かはわからなかったのです。
〔広島市内で橋々を撮影してきたことで、広島市内では明治になってから渡し船に変わり木橋が架橋されてきた歴史を知りましたので〕
ここ仁方の錦川に架かる常磐橋を本格的な木橋に替えようとした人物がおり架け替えられたのではないかとわたしは考えたのですがどうでしょうか。 |
17.05.28.裕・記編集 |