|
中区千田町の日成建設前に建立されている「佐々木鹿蔵翁之像」です。 |
創設者佐々木鹿蔵氏は明治22(1889)年豊田郡大長村佐々木家の二男として生まれ、後父と共に呉市川原石町に転住じました。
弱冠16歳にして呉市青果商組合長に推され業界の天童と謳われました。28歳の時米穀界に転じ呉米穀組合同県連合会、次いで広島食糧営団の各理事長を歴任、この間呉商工会議所副会頭をはじめ商工界の要職にあって、高潔にして豪放細心生来の先見と洞察力により常に業界の先駆者として献身しました。
時恰も戦時中悪化する食糧事情との斗いに東奔西走しつつ、原爆の戦禍に見舞われました。都市の惨状を目撃し将来の都市建設は不燃化にあると痛感、資源不足の中で都市復興に腐心を続け、昭和21(1946)年9月11日広島市東白島町に中国復興建築株式会社(現在の日成建設株式会社の前身)を設立自ら代表者となりました。次いで、衆参二院制と参院選に広島県より出馬し最高点当選、民主党に属して衆参議員総務会長、運輸委員長として国政に参与し政界に重きをなしました。然し、昭和25(1950)年11月2日正に朝鮮動乱の最中突如として病に倒れ61歳を一期として一生を閉じました。
茲に創立三十周年を記念して本社ビルを建設するに当り胸像を建立してその徳を偲び遺志を永久に継承します。 昭和51(1976)年3月吉日
日成グループ 日成建設株式会社 日本ブロック株式会社 日成開発株式会社 |
 |
|
※ |
日成建設(株)(代表:島岡健治)は、2010(平成22)年7月30日自己破産申請しました。
負債額は約6億円。原因は官庁工事の減少に加え、民間工事まで減少、アーバンコーポレーションへの焦げ付きなど発生して、資金繰りが悪化していた事などだそうです。
翌(平成23)年2月25日広島地裁より破産手続終結を受けたそうです。 |
|
※ |
第1回参議院議員通常選挙:1947(昭和22)年4月20日
当日有権者数:1,091,226人 投票率:66.03% |
当 |
佐々木鹿蔵(58) |
無 |
217,498 |
民主党 |
当 |
山下義信(53) |
無 |
149,129 |
浄土真宗僧侶 |
当 |
山田節男(49) |
社会党 |
136,600 |
のち、第25代、26代広島市長 |
当 |
岩本月洲(46) |
無 |
41,621 |
自由党、(京都女子専門学校講師) |
|
友安唯夫(49) |
無 |
32,809 |
|
|
佐藤俊一(57) |
社会党 |
31,301 |
|
|
住吉繁一(57) |
無 |
24,708 |
|
|
関森薫(48) |
無 |
14,404 |
|
|
この胸像像後ろをみると、立体寫眞像 發明者・盛岡勇夫作と読めました。 |
2011年交流ウォーク吉島地区の下見の時広電日赤病院前から少しばかりぶらりしながら集合場所の吉島公園に行こうとした時、確かここは日成建設の本社だったところと思った時に玄関前で見た胸像でした。
日成建設の創設者が佐々木鹿蔵ということはこの胸像の説明板を読んで(わたしは)知りましたが、会社が破産手続きをしたということを知っていましたので頁を編集していませんでした。いま(2012年)になりましたが、「広島ゆかりの人たち」編の政治家として、佐々木鹿蔵を取り上げなくてはとこの頁を編集しました。 |
12.12.25.裕・記編集 |
|