(庄原市)原爆犠牲者之碑

  庄原市山内町の山内記念農村公園に、建立されている「(庄原市)原爆犠牲者之碑」です。
この碑の建立日:1958(昭和33)年3月建立時は既に庄原市でした。
1954(昭和29)年3月31日比婆郡庄原町+高村+本田村+敷信村+山内東村+山内西村+山内北村=庄原市
碑正面: ☆原爆犠牲者之碑
碑裏面: 昭和廿年八月六日八十八柱措置跡
(参考にしている)資料によると、
『1945(昭和20)年8月6日午前8時15分に米軍により投下された原子爆弾、
その3日後の8月9日広島陸軍病院から270名の被爆負傷者が列車で山内駅に送られてきたそうです。
(山内西村立)山内西国民学校(現在・山内小学校)を臨時病院にして収容しましたが、輸送中死亡の6名を含めて88名が息を引き取り、(現在原爆犠牲者之碑が建立されている地で)荼毘に付されました。
犠牲者は、陸軍看護婦、陸軍軍属、陸軍予備兵、陸軍衛生兵、陸軍・一等兵から少尉の軍人、などであったそうです。』
地元の日向・大歳地区婦人会、山内西地区婦人会及び有志の方々は、その後亡くなった方々の供養を続けて1たそうで、この事実を後世に伝え原水爆禁止の決意を表明しようと浄財を募り荼毘に付したこの地に「原爆犠牲者之碑」が1958(昭和33)年3月実現しました。
この碑の横に、「原爆犠牲者芳名碑」と「看護の碑」が建立されています。
 
「原爆犠牲者芳名碑」は88名の方々のお名前が刻まれていると思ってみましたが、最後の他五名とあり、お名前さえ不明な方々が居られた事を知り目頭があつくなりました。
参考にしている資料によると
『地元の山内社会福祉協議会では、氏名がわかっていながら遺族の消息が不明の方々がおられ、手掛かりを求め続けているそうですので、「原爆犠牲者芳名碑」の拡大画像を別頁に編集しました。
広島原爆戦災誌によると
『同日(8月6日)夕方7時ごろ、戸坂から芸備線で続々と負傷者が送られて来はじめ、10日ごろまで続いて、庄原国民学校(広島赤十字病院)に680人、山内西国民学校に280人を収容したが、その惨状は言語に絶した。全員といってもよいほど高熱と下痢で苦しみ、発狂状態になる人もたくさんいた。
広島第一陸軍病院庄原分院藤高茂明院長以下全職員は、不眠不休の治療活動を続けたが、死亡者が続出、同年12月中旬、収容所を閉鎖するまでに、山内西国民学校では88人、庄原国民学校(庄原分院)では200人が不帰の客となった。
収容者は、地元とは関係のない者が多く、全国各地から応召した軍人・軍属で、戸坂国民学校(陸軍病院分院)で収容しきれなくなった負傷者などが転送されたのである。』とあります。
また、『死体の埋葬は山内西村字大歳の葛城山でおこなったが、その跡地に大歳部落の婦人会が発起人となり、昭和33年3月、「原爆犠牲者の碑」を建立し、死亡者88柱をとむらった。以後毎年、春分・秋分の日、および原爆記念日には、地元婦人会が中心となり、各寺院の協力を得て法要をおこなっている。』とあります。
今(2022)年8月原爆忌に、この地で山内地区社会福祉協議会が主催する原爆犠牲者慰霊祭があったとの中國新聞記事をみました。
わたしが参考にしている資料で、「原爆犠牲者之碑」が建立されていることは知っていましたが、わが家からは遠く足の問題で訪ねることは無かったのです。
盆休暇で帰ってきた息子が行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、庄原市に建立されている原爆関連の慰霊碑と庄原出身の倉田百三関連の石碑などを訪ねてみたいと頼んだのです。
ここで取り上げた
「原爆犠牲者之碑」に関しては中國新聞では建立場所が山内小学校近くとしか記述がなく、参考資料には葛城山山麓とあるだけで明確な場所がわからなかったので、庄原市役所にTELして尋ねたのです。
庄原市役所総務課職員の方にグーグルマップを見ながら教えていただいたのです。

下段にグーグルマップを掲載しました。〔建立場所付近を拡大すると(開けていて)碑建立広場がわかりましたので〕グーグルマップの有効性を改めで感謝した次第です。
救護所になったという山内小学校横に息子運転の車を留め、あいにく小雨が降り出した中を徒歩で行きました。年寄りのわたしの足で10余分かかったでしょうか、迷うことなく訪ねることができ、碑前で息子と頭を垂れた後撮影しましたので、この頁を編集しました。その後、JR山ノ内駅へ立寄りました。
22.08.19.裕・記編集

22.08.14.撮影
庄原市山内町898-1   山内記念農村公園

22.08.14.撮影
山内記念農村公園の北側:碑建立広場まで坂道ですので手摺が設置されていました

22.08.14.撮影
(最後に階段を上らなければなりません)

22.08.14.撮影
奥側:「原爆犠牲者芳名碑」、手前:「看護の碑」  と  「☆原爆犠牲者之碑」

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影
正面 裏面

22.08.14.撮影
奥側:「原爆犠牲者芳名碑」、手前:「看護の碑」

22.08.14.撮影
(裏側からみました)

22.08.14.撮影
 

グーグルマップを使用しています
荼毘に付された地  救護所になった現・山内小学校  運ばれてきた現・JR山ノ内駅
庄原市立山内小学校
       庄原市立山内(やまのうち)小学校略沿革 
1888(明治21)年 本郷・殿河内小学校を合併。本郷+上村+木戸+尾引=山内小学校開設。
1889(明治22)年 山内尋常高等小学校と改称。
1936(昭和11)年 山内西尋常高等小学校改称。現在位置に築移転。
1941(昭和16)年 山内西国民学校と校名改称。
1947(昭和22)年 山内西村立山内西小学校改称。
1954(昭和29)年 庄原市発足で、庄原市立山内小学校と改称。
1986(昭和61)年 現在の校舎竣工
息子運転の車を(いまは当時の面影は無いと思ってはいましたが)山内小学校横に止めてもらい、1986年に建替えられた現在の校舎外観を撮影しました。
ここから亡くなった方々を荼毘にした地まで運んだのだと思いつつその地まで上って行きました。

22.08.14.撮影
(現在の山内小学校をグラウンドの方からみました)
JR山ノ内駅
   JR山ノ内駅略沿革
1924(大正13)年)9月20日 芸備鉄道の駅として開業。
1933(昭和8)年6月1日 芸備鉄道の一部国有化で、国有鉄道庄原線の駅となる。
1936(昭和11)年10月10日 庄原線が三神線に編入、その所属となる。
1937(昭和12)年7月1日 三神線が芸備線の一部となり、その所属となる。
1972(昭和47)年9月1日 無人駅化(簡易委託駅化)。
1987(昭和62)年4月1日 国鉄分割民営化で、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
現在、1面1線のホームがあります。
以前は島式1面2線のホームだったことが想像できるスペースがあります。駅舎側の線路(旧上り線だった)が撤去され、現在の停留所構造となっています。
三次鉄道部管理の無人駅で、ホームから離れた位置に待合所があり、駅舎とは云えませんので駅舎は無人化と同時に撤去されたのではと思いましたが?
駅前広場の大銀杏は、広島の陸軍病院から運ばれてきた原爆による負傷者の方々を見守っていたのではないのかと思いました。

22.08.14.撮影
手前建物:待合所   向側:(島式)ホーム



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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