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庄原市上原町の浄光寺に建立されている「廣島陸軍幼年學校生徒慰霊碑」です。
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1945(昭和20)年6月上旬ここ庄原地区に学童疎開してきた幼年学校生のうち三名が(広島市に帰省中に)被爆し死亡したことを知った〔1954(昭和29)年庄原市になった〕市民の世話でここ浄光寺に木製の墓標が建立され故・古川英章師により管理されていました。
被爆30周年・1975(昭和50)年に同期生により木碑が再建されましたがこれも朽ち、1985(昭和60)年碑文を刻んだ石碑と表題石碑が建立されたそうです。 |
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右碑正面: |
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栗城政雄 |
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(校章)廣島陸軍幼年學校生徒 |
海内暢行 |
之霊 |
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松田進 |
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左碑正面: |
廣島陸軍幼年学校は廣島市基町にあったが、大東亜戦争愈々急迫を告げ空襲が激化するに及んで阿南陸相自らによる学校疎開が決断され、昭和廿年六月上旬、担当武官文官以下第一学年二五二名が此の地に転営して来た、以来此の一帯を庄原台と称し、格致中学、山ノ内東国民学校講堂に起居して、日夜、学業教練に精励、身心を鍛錬した
海内暢行、松田進は本土決戦を前に両親に対する最後の訣別として許可された休暇帰省中原爆により戦死、栗城政雄は廣島第二陸軍病院入院中被爆、八月廿六日三次分院に於いて戰病死した。終戦により、幼年学校は廃校となったが、校葬をもって合祀された三君の墓標は爾来、浄光寺によって手厚く弔われて来た。
入校四十周年を機に、同期再びこの地に集い、ありし日の三君を偲び、その死を悼んでここに之を再建する。 |
(左碑)
右側面: |
昭和六十年八月
廣島陸軍幼年學校第四十九期生一同 |
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2022年盆休暇で帰ってきた息子に庄原市に建立されている3基の原爆関連の慰霊碑を訪ねることを主目的に庄原市にやって来たのです。
最初に山内町の「(庄原市)原爆犠牲者之碑」を訪ね、次に訪ねたのがここ浄光寺の「広島幼年学校生徒慰霊碑」でした。
お寺の駐車場から本堂前に行こうとした時、大型犬に吠えられ、その犬が思い切って走ってきたので小心者で目が悪いわたしは慌て慄きましたが、長い紐で繋がれていたのが見え(後から来ていた)息子は大丈夫とわたしに云ってきました。それにしても泥棒よけにはなるが一般人には何とも物騒な事かと思ったので敢えて記述しました。
本堂前で手を合わせ、目的の碑は何処だろうと本堂周りから探しました。
本堂左手の少し下がった処(墓苑)で息子が「広島幼年学校生徒慰霊碑」を見つけて声をかけてくれたので、わたしも下りていき、二人並んで頭を垂れたのでした。 |
関連頁:広島陸軍幼年学校跡 |
22.08.20.裕・記編集 |
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22.08.14.撮影 |
庄原市上原町2527 浄光寺(本堂向かって左側墓苑) |
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22.08.14.撮影 |

22.08.14.撮影 |
“碑文(上記)石碑”と“表題(上記)石碑”の二つの石碑が建てられています |
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22.08.14.撮影 |
被爆し亡くなった三名のお名前が刻まれています |
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22.08.14.撮影 |
(こちらの側面には文字は刻まれていません) |
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22.08.14.撮影 |

22.08.14.撮影 |
(手前の側面には文字なし) |
建立年などが刻まれています |
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22.08.14.撮影 |
(裏面には文字は刻まれていないようでした) |
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広島陸軍幼年学校一年生の疎開地など関係図 |

グーグルマップを使用しています |
浄光寺 当時・山内東村立山内東国民学校(東小学校) 当時・格致中学(県立格致高校) |
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