(宝蔵寺)宝篋印塔

  広島県庄原市東本町の宝蔵寺に建立されている「宝篋印塔」です。
※1359(延文4)年に沙弥並量が願主として建立した供養塔です。
※延文4年は北朝暦(で、南朝暦では正平14年です。)
広島県重要文化財  宝蔵寺の宝篋印塔
      指定年月日:昭和330(1955)年9月27日。
      所在地:庄原市東本町二丁目5番22
現状:員数1基。 
    構造及び形式 花崗岩製 高さ1.8m
内容:
龍尾山密厳院 宝蔵寺(真言宗御室派)は古くは勝光山(庄原市川北町)にあったが、のちに現在地から北方の西城川対岸大仙谷(庄原市本町)の瀧尾山(たきのおやま)に移ったとされる。中世には山内氏の祈願所とされて寺領の寄進を受けるなどして栄えた。天正3(1575)年の「山内能元通坊主職預ケ状」(宝蔵寺蔵・市重文)には「瀧尾山」とある。
この宝篋印塔には「延文四年南呂下旬」(1359年8月下旬)の銘がある。
延文は北朝年号で、山内氏は諸文書で北朝年号を使用している。「沙弥並量」が願主として建立された供養塔。中世の宝篋印塔として姿がよく損傷もほとんどない逸品とされる。
宝蔵寺は寛永3(1626)年堂迫山に移り、さらに正保2(1645)年に末寺上野寺跡に移転して現在に至る。
             平成22(2010)年3月 庄原市教育委員会
南北朝時代
1336年足利尊氏(1305-1358)が建武政権に反し、持明院統の光明天皇(1322-1380)を擁立してから1392年足利義満(1358-1408)のときの南北朝合体までの時代。
後醍醐天皇(1288-1339)が吉野に移って開いた南朝(後醍醐・後村上・長慶・後亀山の4代)と、尊氏が擁立した北朝(光明・崇光・後光厳・後円融・後小松の5代)の両統が57年間対立した。
前期の10余年は北朝方がもっぱら南朝を攻撃し、中期の10余年は幕府の内紛(観応の擾乱)を利用して南朝が活躍、後期30年間は3代将軍義満による幕府権力の確立した時期。
この間荘園制の崩壊による貴族・寺社の没落、郷村制の発達、守護領国制の形成などがあり、社会経済史上注目すべき時代であった。
今(2022)年盆休暇で帰ってきた息子が行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、庄原市に建立されている原爆関連の慰霊碑と庄原出身の倉田百三関連の石碑などを訪ねてみたいと頼んだのです。
資料を見て知っていたここ宝蔵寺の「原爆犠牲軍人の碑」も訪ねたのです。
境内でみた「県重要文化財の“宝篋印塔」をこの頁で取り上げました。他に“征清紀念碑”、”、“手押しポンプ”は別頁で編集しました。
22.09.26..裕・記編集

22.08.14.撮影
庄原市東本町2-5-22 宝蔵寺
本堂   手水舎   (奥:宝篋印塔)

22.08.14.撮影
宝篋印塔をみました

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影 

22.08.14.撮影



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