(宝蔵寺) 征清紀念碑

  広島県庄原市東本町の宝蔵寺に建立されている「征清紀念碑」です。
※1897(明治30)年4月に建立された碑です。
碑文の解読は無理なわたしですが、所々を、
『明治廿七八年の役は吾國■天皇■■■天誼を重んじ給て朝鮮をして獨立■權勢■保たしめんと聖慮を盡はせ給ふ所から清國は めん       陽ふ之を防ぐ のみならず却て吾 向て戰       宣戰の大詔を降して東洋平和を克     吾第五師臺は廿七年六月初旬 軍隊を朝鮮 渡る 奸徒を京城・・・・』
資料によると、第五師団は、
『1894(明治27)年の日清戦争では他の師団に先駆けて大島義昌(1850-1926)少将指揮の大島旅団(混成第9旅団)を編成し派遣。同(明治27)年7月28日大島旅団は漢城(李氏朝鮮の首都、後の京城、現在のソウル)南方で清国軍と交戦しました(成歓の戦い)。この戦闘は僅か1日で決着がつき日本軍の勝利でしたが、これは明治維新以後初めて日本の軍隊が外国軍と交戦した※1)ものです。
旅団はこの後平壌攻略戦(9月15日)、鴨緑江渡河作戦(10月24日)を経て12月には奉天(現在中国の瀋陽市)に進出し、1895(明治28)年3月には牛荘の戦いに参加。同(明治28)年4月17日の下関条約締結で戦争は終結しました。
※1) Wikipediaによると
1871(明治4)年10月、台湾に警察ではなく軍を派遣した。明治維新後の日本としては初の海外派兵で、5月6日に台湾南部に上陸。
5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結、本格的な制圧を開始。6月3日牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった。
22.10.11.追記
(にっしんせんそう)
日清戦争:
1894(明治27)年8月から翌(明治28)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。
朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌黄海威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月、下関で講和条約締結。
今(2022)年盆休暇で帰ってきた息子が行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、庄原市に建立されている原爆関連の慰霊碑と庄原出身の倉田百三関連の石碑などを訪ねてみたいと頼んだのです。
資料を見て知っていたここ宝蔵寺の「原爆犠牲軍人の碑」も訪ねたのです。
その時本堂手前で“征清紀念碑”をみたので撮影したのです。以前旧佐伯郡大野町で征清凱旋・碑を見たことがあるなとおぼろげな記憶がよみがえりました。
明治維新後の日本国では、日清戦役は大きな出来事だった事がわかる記念碑だなと思ったのです。
22.09.29..裕・記編集

22.08.14.撮影
庄原市東本町2-5-22 宝蔵寺

22.08.14.撮影
碑念紀清征

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影 
(正面)  (碑文)

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影 
(裏面)  戰病歿者など、明治三十年四月建之

22.08.14.撮影
(側面)                           本堂



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