倉田百三生誕之地・碑

  広島県庄原市中本町に建立されている「倉田百三生誕之地・碑」です。
※倉田百三没後33周年の1976(昭和51)年にこの碑が建立されています。
正面: 倉田百三生誕之地
側面: 百三は倉田家の只一人の男児として生まれた 兄の生涯の自由奔放な生
活法はこの温床から始まる 精神的暴君の性格は兄の個性の強さと父
母の犠牲を惜しまぬ愛の深さに依る「出家とその弟子」は生家に於て執筆
された 五十二年に十一日不足する一生を終ったのは東京大森の自宅
であった
明治二十四(1891)年二月二十三日生 昭和十八(1943)年二月十二日歿 艶子※記
裏面: 昭和五拾壱(1976)年拾月吉日
      庄原ライオンズクラブ建之
百三の生家は三上郡庄原村(現在・庄原市中本町一丁目)の商店街にあり、祖母の実家・尾道の「クリシン」の出店として、呉服のほかに雑貨を取り扱っていたそうです。
現在は、生家の跡地に記念碑が建てられています。
碑文は百三の妹・艶子さんによるものです。
倉田艶子(つやこ:1896-1988)。
筆名:面足千木(おもたる ちき)。劇作家。三上郡庄原村出身*。百三(1891-1943)の実妹。
1916(大正5)年日本女子大学校〔大学令の旧制大学ではなく、専門学校令による旧制女子専門学校〕卒業。
1922(大正11)年「大雀命」「かねごと」2編を収めた戯曲「芸楽道場叢書」を出版、百三が序文を書いた。百三主宰の「生活者」にも参加、父の死後「挽歌」、母の死後「愛嬢」などを書いた。
   関連頁:艶子が写っている家族写真パネル(倉田百三文学館にて)
ものの資料には比婆郡庄原町出身とありましたが、
1898(明治31)年10月1日に三上郡庄原村から比婆郡庄原町になっています(ので)。
庄原市を訪れた主目的原爆関連の慰霊碑(3個所)を巡り終え、次は倉田百三関連の地を訪ねることになりました。
庄原市のweb site“倉田百三について”でこの碑が、中本町商店街の通りに建立されていることを知り、グーグルマップで建立の石柱を確認してはいましたが、実際行くとさびれた商店街で、人通りもなく具体的な場所がわからなかったので、少しうろうろして居たのです。ちょうど、交差点角の店から出てきたご夫婦に「倉田百三の生誕の地碑をご存じないですか?」と尋ねました。『わたしたちは地元の人ではありませんが、そこでみましたヨ』と教えてもらい撮影できました。
23.07.06.更新   22.09.17..裕・記編集

22.08.14.撮影
広島県庄原市中本町1-1-5
広島県警でも“ゾーン30”を推進しているそうです。
『生活道路における歩行者等の安全な通行を確保することを目的として、区域(ゾーン)を定めて最高速度30キロメートル毎時の速度規制を実施するとともに、その他の安全対策を必要に応じて組み合わせ、ゾーン内における速度抑制や、抜け道として通行する行為の抑制等を図る生活道路対策です。』と云っています。
倉田百三とのつながりはありませんが、取り上げました。
道路面に”ゾーン30”の印をはじめてわたしはみたのです。
通学路になっていて、しばしばニュースで見る通学児童たちに自動車が突っ込む悲しい事故が起こらないようにスピードを30km/h以下にしろという標識かと思っていたのです。
帰宅して数日たってTVローカルニュースで みたので取り上げました。

22.08.14.撮影
(正面からみました)

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影
(隣の店のシャッターは下りていました)

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影
 
倉田百三の生家
2023年倉田百三文学館を見学した時、展示パネルに生家がありましたので撮影しました。
23.07.06.追記

23.06.10.撮影
百三の生家:庄原町の中心にあった生家・倉田呉服店



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