倉田百三の墓 (庄原市)

  広島県庄原市西本町の倉田家墓所にも建立されている「倉田百三のお墓」です。
※百三は、東京・大森の自宅で亡くなりましたので、東京府中の多摩霊園に墓があります。
倉田百三ここにねむる       平成29(2017)年9月庄原市教育委員会
倉田百三は、明治24(1891)年2月23日広島県三上郡庄原村(現・庄原市中本町1丁目)に呉服屋を営む倉田吾作、母ルイの長男として生まれました。
庄原高等小学校から、明治37(1904)年広島県立三次中学校に進み、同校の回覧雑誌「白帆(しらほ)」や校友会誌「巴峡(はきょう)」に小説、随筆、短歌などを発表しました。
明治43(1910)年東京第一高等学校(東京大学教養学部の前身)に入学し哲学を志したが、大正2(1913)年病を得て退学しました。
翌(1914)年庄原に帰り上野湖畔の借家で療養の傍ら思索を続け、大正6(1917)年26歳の時不朽の名作「出家とその弟子」を岩波書店から出版しベストセラーとなりました。
「愛と認識の出発」、「青春の息の痕、「光り合ういのち」など数多くの作品を残し、昭和18(1943)年2月12日東京大森の自宅で52年の生涯を閉じました。
百三の墓は、東京都府中市の多磨霊園にあり、分骨されてここ倉田家の墓地にも建立されました。
「戚々西行水楽居士」と彫られた墓石がそれで、戒名を付け墓石の戒名を揮毫したのは一灯園・西田天香です。
一灯園(いっとうえん)
財団法人懺悔奉仕光泉林の通称。西田天香(てんこう:1872-1968) が創始した宗教・修養団体。天香は青年時代、事業にかかわる労使の対立に悩み、争わずに生きる道を求めて故郷の滋賀県長浜で断食を行い、大悟して下座行と奉仕の生活を始めた。
次第に共鳴者が集り、1913(大正2)年京都鹿ヶ谷に最初の建物が建ち、一灯園と命名された。
その後、山科に今日の施設の基礎がおかれた。現在ここでは 3,000人ほどの「同人」が共同生活を営み、印刷・出版・建築・農業などに従事するほか、他家の便所掃除を行うことで奉仕の生活を実践。
また保育園から大学までの教育施設をもち、さらに宗教の国際交流にも積極的に参加している。
1915(大正4)年11月西田天香の教えに共感。
一燈園に妹の艶子と共に入り、二人で生活をしな信仰生活を送る。
1916(大正5)年6月艶子と共に帰郷。
戚戚(せきせき):憂い悲しむさま。
今(2022)年盆休暇で帰ってきた息子が行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、庄原市に建立されている原爆関連の慰霊碑と庄原出身の倉田百三関連の石碑などを訪ねてみたいと頼んだのです。
庄原市のweb site“倉田百三について”でこのお墓が、西本町の倉田家の墓所の中に建立されていることを知り、グーグルマップで確認してはいました。
息子もナビに入力していて、迷うことなく墓地につきました。倉田家の墓地ですので、いろいろ墓石が建立されていましたが、かすかに倉田百三、不鮮明でしたが歿年が書かれている木柱がありましたので、これだなと撮影しました。戒名で間違いないことを確認しました。
22.09.17..裕・記編集

22.08.14.撮影
庄原市西本町1-19-24 

22.08.14.撮影
正面の木柱根際の墓石

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影 
(正面) 戚々西行水樂居士 

22.08.14.撮影



「広島ゆかりの人たちの生誕地・墓」編



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