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広島県庄原市東本町の上野公園北側丘陵頂部に建立されている「倉田百三文学碑」です。
※碑面には“愛と認識との出発”に所収された「森の沼」の一節が刻まれています。 |
碑正面: |
森の沼
藍色の水の面に銀色の跡を劃して
かいつむりの真一文字に泳ぐを見よ
されど音を立てざるなり
この夕奇しき寂寥の情調に
もの皆は首を垂れて白く愁ふ
百三 |
裏面: |
倉田百三
此(こ)の町に生れ
この地に遊ぶ
昭和三十二(1957)年四月 建 |
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倉田百三文学碑 平成29(2017)年9月 庄原市教育委員会
倉田百三文学碑「森の沼」は、昭和32(1957)年4月庄原市文化協会が建立しました。碑文は“愛と認識との出発”の「憧憬~三之助の手紙~」の中の百三の詩「森の沼」の一節であり、碑の文字は百三の筆蹟を模写しています。
倉田百三は、明治24(1891)年2月23日三上郡庄原村(現・庄原市中本町1丁目)に呉服商を営む倉田吾作、母ルイの長男として生まれました。庄原高等小学校から明治37(1904)年広島県立三次中学校に進み、同校の回覧雑誌「白帆」や学友会誌「巴峡(はきょう)」に小説、随筆、短歌などを八表しました。
明治43(1910)年東京第一高等学校(東京大学教養学部の前身)に入学し哲学を志したが、大正2(1913)年病を得て開学しました。翌(1914)年庄原に帰り上野湖畔の借家で療養の傍ら思索を続け、大正6年26歳の時不朽の名作「出家とその弟子」を岩波書店から出版しベストセラーとなりました。 |
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「愛と認識との出発」、「青春の息の痕」、「光り合ういのち」など数多くの作品を残し、昭和18(1943)年2月12日東京大森の自宅で52年の生涯を閉じました。
この石碑はその形から「象形碑」とも呼ばれ、紀伊の国(和歌山県)の産にして広島大学にあったものをここに運びました。 |
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今(2022)年盆休暇で帰ってきた息子が行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、庄原市に建立されている原爆関連の慰霊碑と庄原出身の倉田百三関連の石碑などを訪ねてみたいと頼んだのです。
庄原市のweb site“倉田百三について”に『上野公園の瓢山古墳付近へ昭和32年に設立されたものです。碑文は“愛と認識との出発”に所収された「森の沼」の一節からとられています。』とあったので、倉田百三文学碑を訪ねたのです。
案内標識に従い丘を上りきったところで最初に目にしたのが瓢山(ひさごやま)古墳でした(ので)。
文学碑は、その奥側だろうと古墳撮影後、先に行ったところにここで取り上げた大きな石碑をみましたのでこれだなと近づきみました。 |
22.10.18..裕・記編集 |