(しちょうゆそつ)
輜重輸卒: |
旧陸軍で、輜重兵の監視のもとに軍需品の輸送に当たった兵卒。 |
(へいそつ)
兵卒: |
旧日本陸軍では兵長以下。 |
(にっしんせんそう)
日清戦争:
明治二十七・八戦役: |
1894(明治27)年~1895(明治28)年に、日本と清国との間で行なわれた戦争。
朝鮮進出を図る日本は朝鮮の宗主権を主張する清国と対立、東学党の乱で清国が出兵したとき、1884(明治17)年日清間で結ばれた天津条約に基づき、これに対抗して出兵し、1894(明治27)年7月豊島沖海戦で戦争が開始された。
日本軍は平壌・大連・旅順などで勝利を続け、翌(1895)年3月までに日本陸軍は遼東半島を完全に制圧し、休戦成立。4月に講和条約(下関条約)が締結された。 |
(にちろせんそう)
日露戦争:
明治三十七・八戦役: |
1904(明治37)年2月より翌(1905)年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。
日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。
1900(明治33)年の義和団事件を機に満州に15万の兵を送り、事件後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手し、日本の利害と衝突するに至った。
1903(明治36)年6月元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め、8月以降数次にわたりロシアと交渉したが、ついに妥協点に達せず、1904(明治37)年2月8日日本側の仁川沖、旅順港奇襲で戦争開始、10日宣戦を布告。
陸軍は4軍に編制、総司令官大山厳(1842-1916)、総参謀長児玉源太郎(1852-1906)のもとに満州軍総司令部を設けて全軍を統轄。戦闘は8月遼陽会戦、10月沙河会戦と苦戦ながら日本が勝利。他方旅順攻略は乃木希典(1849-1912)を司令官とする第3軍の3次にわたる総攻撃で死傷者5万9,000余の損害を出し、ようやく1905(明治38)年1月に占領。3月には両国とも30万前後の大軍を奉天に結集、会戦の結果日本軍が勝利(奉天会戦)。以後戦闘は膠着状態となった。
海軍は5月に日本海海戦で勝利し、これを機に、米国大統領T.ローズベルト(26代:1858-1919)の講和勧告を受諾。8月にポーツマスで講和会議が開かれ、9月に日本全権小村寿太郎(1855-1911)外相とロシア全権ウィッテ(1849-1915)が日露講和条約(ポーツマス条約)に調印。 |