(旧・庄原町川手沖地区)忠魂碑

  広島県庄原市川手町の‘沖の町バス停’根際に建立されている「(旧・庄原町川手沖地区)忠魂碑」です。
正面: 忠魂碑
裏面: 於 日清戰役 ■陸軍輜重輸卒 勲四等
於 日露戰役 ■陸軍歩兵一等卒 勲八等功七級
側面: 明治四十五年三月(建之)
二人のお名前がなんとか読めないかと思いましたがわたしには読めませんでした。
所属は上記のように刻んであるようですが、勲四等は確かではありません。
題の揮毫者、碑建立者もわかりませんでした(読めませんでした)。
(しちょうゆそつ)
輜重輸卒:
旧陸軍で、輜重兵の監視のもとに軍需品の輸送に当たった兵卒。
(へいそつ)
兵卒:
旧日本陸軍では兵長以下。
(にっしんせんそう)
日清戦争:
明治二十七・八戦役:
1894(明治27)年~1895(明治28)年に、日本と清国との間で行なわれた戦争。
朝鮮進出を図る日本は朝鮮の宗主権を主張する清国と対立、東学党の乱で清国が出兵したとき、1884(明治17)年日清間で結ばれた天津条約に基づき、これに対抗して出兵し、1894(明治27)年7月豊島沖海戦で戦争が開始された。
日本軍は平壌・大連・旅順などで勝利を続け、翌(1895)年3月までに日本陸軍は遼東半島を完全に制圧し、休戦成立。4月に講和条約(下関条約)が締結された。
(にちろせんそう)
日露戦争:
明治三十七・八戦役:
1904(明治37)年2月より翌(1905)年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。
日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。
1900(明治33)年の義和団事件を機に満州に15万の兵を送り、事件後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手し、日本の利害と衝突するに至った。
1903(明治36)年6月元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め、8月以降数次にわたりロシアと交渉したが、ついに妥協点に達せず、1904(明治37)年2月8日日本側の仁川沖、旅順港奇襲で戦争開始、10日宣戦を布告。
陸軍は4軍に編制、総司令官大山厳(1842-1916)、総参謀長児玉源太郎(1852-1906)のもとに満州軍総司令部を設けて全軍を統轄。戦闘は8月遼陽会戦、10月沙河会戦と苦戦ながら日本が勝利。他方旅順攻略は乃木希典(1849-1912)を司令官とする第3軍の3次にわたる総攻撃で死傷者5万9,000余の損害を出し、ようやく1905(明治38)年1月に占領。3月には両国とも30万前後の大軍を奉天に結集、会戦の結果日本軍が勝利(奉天会戦)。以後戦闘は膠着状態となった。
海軍は5月に日本海海戦で勝利し、これを機に、米国大統領T.ローズベルト(26代:1858-1919)の講和勧告を受諾。8月にポーツマスで講和会議が開かれ、9月に日本全権小村寿太郎(1855-1911)外相とロシア全権ウィッテ(1849-1915)が日露講和条約(ポーツマス条約)に調印。
今(2022)年盆休暇で帰ってきた息子が行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、庄原市に建立されている原爆関連の慰霊碑と庄原出身の倉田百三関連の石碑などを訪ねてみたいと頼んだのです。
NET(庄原の歴史マップ:庄原自治振興区発行)を見て知ったこの(旧・庄原町川手沖地区)忠魂碑でしたが、刻まれた文字が薄くなっておりわたしには読めなく祀られている方のお名前がわからなかったのです。
戦後77年、庄原市の遺族会の資料には記録が残っているとは思うのですが、NET検索したのですが、現在庄原市遺族会は活動をしていないようでした。
22.10.06..裕・記編集

22.08.14.撮影
庄原市川手町647-1付近(沖の町バス停すぐ南)

22.08.14.撮影
(碑後側に西城川が流れる)

22.08.14.撮影
忠魂碑

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影 
側面:明治四十五年三月(建之)  (裏面)

22.08.14.撮影
(何とかお二人のお名前を読もうとしましたがカビが邪魔して読めませんでした)

22.08.14.撮影
国道432号と忠魂碑

22.08.14.撮影



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