(旧・山内北村)忠魂碑

  広島県庄原市川手町庄原市北自治振興センター前に建立されている「(旧・山内北村)忠魂碑」です。
現在の庄原市北自治振興センターの地は、旧山内北村の役場があった処です。
この忠魂碑は大正15(1926)年10月建立です。
根際の“忠功碑”と“明治戦没従軍記念碑”は、明治43(1910)年11月市場三社ヶ段に建立されましたが、(忠魂碑建立時に)この地に移設建立されたそうです。〔(庄原市北自治振興区)市場自治会生涯学習部の資料参照〕
正面: 忠魂碑
  陸軍大將 一戸兵衛書
側面: 大正十五年十月    
在郷軍人分會
青年團
建之
裏面: (わたしには読めませんでした)
1889(明治22)年4月1日町村制施行で恵蘇郡川北村+濁川村+門田村=恵蘇郡山内北村発足。
1898(明治31)年10月1日郡制施行で比婆郡山内北村となる。
1954(昭和29)年3月31日庄原町+高村+本田村+敷信村+山内東村+山内西村+山内北村=庄原市発足。
一戸兵衛(いちのへ ひょうえ:1855-1931)
陸軍軍人。弘前藩士の子1874(明治7)年20歳のとき故郷を出奔,陸軍兵学寮内の戸山学校に入学。西南戦争(1877)に従軍して負傷。以後,主に部隊勤務を中心に累進。
1889(明治22)年3月広島鎮台歩兵第11連隊大隊長に移り、1894(明治27年6月から日清戦争に出征。同(1894)年に中佐に進級して第5師団副官。1895(明治28)年3月歩兵第21連隊長に就任、同(1895)年7月戦役から帰還。
1901(明治34)年少将。日露戦争(1904~05)では金沢の第6旅団長を務め,第3軍にあって旅順攻略戦に参加。特に第2回旅順総攻撃では,のちに一戸堡塁と命名された盤竜山P堡塁の奪取に成功,同攻撃中唯一の戦果をあげ勇名を轟かせた。戦後、第1師団長などを歴任、1915(大正4)年大将に昇進後、教育総監に就任。日清戦争後から将校教育に熱心であり、人格的にも適任であった。1920(大正9)年後備役。以後、現役時代に兼任していた学習院院長および明治神宮宮司,帝国在郷軍人会会長などを歴任した。
一戸さんは、東北・弘前出身者であったが、広島鎮台、第五師団(広島)での勤務経験者で、広島にゆかりがあり、のち碑建立時は在郷軍人会会長であったことから揮毫者として依頼したのでしょう。
(にっしんせんそう)
日清戦争:
明治二十七・八戦役:
1894(明治27)年~1895(明治28)年に、日本と清国との間で行なわれた戦争。
朝鮮進出を図る日本は朝鮮の宗主権を主張する清国と対立、東学党の乱で清国が出兵したとき、1884(明治17)年日清間で結ばれた天津条約に基づき、これに対抗して出兵し、1894(明治27)年7月豊島沖海戦で戦争が開始された。日本軍は平壌・大連・旅順などで勝利を続け、翌(1895)年3月までに日本陸軍は遼東半島を完全に制圧し、休戦成立。4月に講和条約(下関条約)が締結された。
(ほくしんじへん)
北清事変:
義和団の乱:
1900(明治33)年北京に進撃してくる連合軍に対し、清朝は6月21日宣戦を布告。
義和団は死力を尽くして戦ったが、7月中旬に天津、8月中旬に北京を8ヵ国(英・米・独・仏・露・日本・伊オーストリア)連合軍に占領され、義和団は弾圧を受けて敗北した。
義和団の京・津占領から連合軍の北京占領にいたる戦争を、日本では〈北清事変〉と呼んだ。
1901(明治34)年9月清朝と11ヵ国(8ヵ国とスペイン・オランダ・ベルギー)との間に最終議定書〈辛丑
しんちゅう条約〉が調印された。
(にちろせんそう)
日露戦争:
明治三十七・八戦役:
1904(明治37)年2月より翌(1905)年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。
日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。
1900(明治33)年の義和団事件を機に満州に15万の兵を送り、事件後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出の具体化に着手し、日本の利害と衝突するに至った。
1903(明治36)年6月元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め、8月以降数次にわたりロシアと交渉したが、ついに妥協点に達せず、1904(明治37)年2月8日日本側の仁川沖、旅順港奇襲で戦争開始、10日宣戦を布告。
陸軍は4軍に編制、総司令官大山厳(1842-1916)、総参謀長児玉源太郎(1852-1906)のもとに満州軍総司令部を設けて全軍を統轄。戦闘は8月遼陽会戦、10月沙河会戦と苦戦ながら日本が勝利。他方旅順攻略は乃木希典(1849-1912)を司令官とする第3軍の3次にわたる総攻撃で死傷者5万9,000余の損害を出し、ようやく1905(明治38)年1月に占領。3月には両国とも30万前後の大軍を奉天に結集、会戦の結果日本軍が勝利(奉天会戦)。以後戦闘は膠着状態となった。
海軍は5月に日本海海戦で勝利し、これを機に、米国大統領T.ローズベルト(26代:1858-1919)の講和勧告を受諾。8月にポーツマスで講和会議が開かれ、9月に日本全権小村寿太郎(1855-1911)外相とロシア全権ウィッテ(1849-1915)が日露講和条約(ポーツマス条約)に調印。
今(2022)年盆休暇で帰ってきた息子が行きたいところに連れて行くと云ってくれたので、庄原市に建立されている原爆関連の慰霊碑と庄原出身の倉田百三関連の石碑などを訪ねてみたいと頼んだのです。
NETを見て知ったこの(旧・山内北村)忠魂碑でしたが、刻まれた文字が薄くなっておりわたしには読めなく祀られている方々のお名前、その数はわからなかったのです。
戦後77年、現・庄原市の遺族会の資料には記録が残っているとは思うのですが、NET検索したのですが、現在庄原市遺族会は活動をしていないようでした。
旧山内北村役場前にこの忠魂碑が主として建立された時、建立は先だった斯民會建立の“忠功碑”と“明治戦没従軍記念碑”がこの地に移設されたそうです。
22.10.06..裕・記編集

22.08.14.撮影
庄原市川手町1543 庄原市北自治振興センターの北隣

22.08.14.撮影
明治戰没従軍記念碑    忠魂碑:陸軍大將 一戸兵衛

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影
(正面) (裏側) (側面)

22.08.14.撮影
明治戦没従軍記念碑
※この「明治戦没従軍記念碑」は明治の終わりに市場三社ヶ段に建立されましたが、(忠魂碑建立時に)この地に移設建立されたそうです。〔(庄原市北自治新工区)市場自治会生涯学習部の資料参照〕
日清戦役、日露戦役かなと思ってこの碑をみると北清役従軍者も刻まれていました。 

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影
(忠魂碑廻りの)玉垣、敷地寄附碑
正面玉垣のひとつに“帝国在郷軍人会山内北村分会”とありました。
また、この碑が建立された土地は、村所有の土地ではなく、谷本勘三郎さんが寄付した事がわかりました。
廻りの玉垣(石柱)は、財政的に協力をした村民有志の方々だそうです。
 

22.08.14.撮影

22.08.14.撮影
 








 








22.08.14.撮影 














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