(毘沙門天堂多宝塔内)緑井原爆犠牲者慰霊碑
  安佐南区緑井の権現山中腹に1984(昭和59)年創建された「毘沙門堂原爆犠牲者慰霊多宝塔」その一階にこの「緑井原爆犠牲者慰霊碑」が1986(昭和61)年に建立されました。
慰霊     荒木武書* *当時広島市長
毘沙門天堂総代原爆犠牲者慰霊多宝塔建設委員会  (酔心会長 原田勉)
昭和59年1月吉日建立 *昭和59年=1984年
1986(昭和61)年に、原爆犠牲者27名、物故者106名を記した過去帳が収められ、それ以後毎年追加記載されているそうです。
(あらき たけし)
荒木武:
(1916-1994)
政治家。三篠町(現・広島市西区)出身。東京大学卒業。
第27代〜第30代・広島市市長(1975〜1991)
*(わたしが撮影し掲載した)画像では慰霊碑前の台に隠れていますが碑には荒木武書と刻まれています。
(さかむら しんみん)
坂村真民:
(1909-2006)
仏教詩人。熊本県荒尾市出身。本名昂(たかし)。神宮皇學館卒業。
愛媛県砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、毎朝1時に起床、近くの重信川で未明の中祈りをささげるのが日課であったそうで、「念ずれば花ひらく」は多くの人に共感を呼び、その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられているそうです。
ここ毘沙門堂多宝塔のものはその30番目のものだそうです。
緑井、八木、川内三忖の原爆犠牲者は、建物疎開作業中川内村国民義勇隊員を含めおよそ400名といわれ、また被爆後この地区まで逃げのびたものおよそ1400名で、死者は350名にも達したそうですこれらの多数の原爆犠牲者を供養するための多宝塔を建立しようという声が1953(昭和28)年頃からで、その為の浄財も寄せられていったそうです。1983(昭和58)年春、毘沙門天堂建設委員会を組織し、1984(昭和59)年1月完成しました。
多宝塔1階は、礼拝堂で、印度産石材に「慰霊」と刻まれた原爆犠牲者慰霊碑で中には過去帳が収められているそうです。その背後の壁には、仏教詩人・坂村真民の「念ずれば花ひらく」の揮毫が刻まれています。
以前資料では、多宝塔全体を原爆犠牲者慰霊塔として建立されているととらえ、多宝塔内一階の「慰霊」と刻まれた碑を、過去帳が収められているということから「緑井(原爆犠牲者)慰霊碑」としていましたので、わたしの頁でもそれを参照させていただき、多宝塔とは別のこの頁を編集しました。
11.09.16.裕・記編集

11.08.08撮影
広島市安佐南区緑井町 (権現山中腹)

11.08.08撮影

11.08.08撮影

11.08.08撮影

11.08.08撮影

11.08.08撮影



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