原田勉顕彰碑、原爆犠牲者供養塔
  安佐南区緑井町の毘沙門堂参道根際に建立されている「(原田勉)顕彰碑」です。
五輪塔の裏をみれば、昭和50(1975)年11月にこの五輪塔が(株)酔心が建立したことがわかります。
(原田勉)顕彰碑は、碑の側面碑文で、昭和60(1985)年10月(株)酔心が建立したことがわかります。また、裏面の碑文で原田勉(酔心初代会長・緑井村出身)が昭和60年4月22日に死去された事がわかります。そして、ここ権現山中腹に原爆犠牲者慰霊多宝塔は原田勉(が中心になって)が昭和59(1984)年1月29日に建立したことがわかりました。
毘沙門天堂原爆犠牲者慰霊多宝塔が、昭和59(1984)年1月建立される前までは、旧緑井村出身の原田勉によって五輪塔を中心に原爆犠牲者供養の場所だったようで、慰霊と刻んだ石燈籠が並んでします。
原田が昭和60年4月22日に死去された事で、顕彰碑が五輪塔根際に建立されたようです。
(ごりんとう)
五輪塔:
地・水・火・風・空の五大をそれぞれ方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に石などでかたどり、順に積み上げた塔。五輪卒塔婆(ごりんそとば)。
平安中期ごろ密教で創始され、大日如来を意味したが、のちには供養塔・墓標などとされた。
原田勉顕彰碑側面には『あくなき食の道を求め、親に喜ばれる人になることを説き、謙虚・初心・反省・報恩感謝の日々に徹し、情誼に厚く、こよなく人を愛し、多くの人に敬愛された酔心の開祖、初代会長・原田勉の波乱万丈の一生を回顧し、以ってこれを鑑となし、ここに顕彰する。 昭和60(1985)年10月(株)酔心』と刻まれています。
裏面には氏の略歴が刻まれています。
毘沙門堂に行く時は山門をくぐり参道を上って行き、境内に建立されている原爆死没者慰霊塔としての多宝塔に行きました。帰る(下る)時は参道ではなく車も通れる坂道を通り、そろそろ境内も終わりに近づいた山門の少し手前でみた石燈籠群でした。何の石燈籠だろうと立ち寄ったのです。中央に五輪の塔があり、(左側に)顕彰碑と刻まれた石碑、左側の石碑に刻まれた文字はその時は(わたしは)読めませんでした。建立されている敷地に入り碑の裏側にもまわってみました。碑文から酔心の会長であった原田勉の顕彰碑であることがわかりましたので、撮影しこの頁を編集しました。
原田勉が中心になって多宝塔を建立するまでは、この地が原爆犠牲者供養として祈りを込められていた聖地であったのだろうと(わたしは)思いました。
11.08.25.裕・記編集

11.08.08撮影
広島市安佐南区緑井町

11.08.08撮影
「顕彰碑」    「五輪塔」    「法界萬霊」塔

11.08.08撮影



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



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権現山 毘沙門堂
原爆犠牲者慰霊多宝塔
 (多宝塔内)緑井原爆犠牲者慰霊碑
(毘沙門堂参道根際)原田勉顕彰碑
(多宝塔前)里見の岩


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