(安村)水害之碑
  安佐南区相田の安村役場跡地(現在は相田集会所になっています)に建立されている「水害之碑」です。 
 正面: 水害之碑
     -碑文-
  大正八年四月穀旦
    廣島縣知事従四位勲三等安河内麻吉篆額
    廣島縣内務部長正五位勲四等財部實(仍)撰文
    廣島髙等師範學校教官稲田 斌書
 裏面: (義援金をだした町村、個人などが刻まれています)〈下記はほんの一部です〉
・・・・金六十七円久地村。援助者百廿五人日浦村。援助者六十四人・金四十五円小河内村。■■鈴張村。援助者百人工兵第五大隊。・・・義援金・個人。・・・。金十二円加計正文外十六名。金十三円本願寺別院参詣同行中。金十円沼田高等■習生徒。金千八十八円海外特志者。金三百廿五円縣内特志者仝特志團体。金二百二円縣内特志町村。・・・・
漢文の碑文で、わたしには読み下せませんでしたので設置の説明板を読んで、そのようなことが記述してあるのだろうと思いました。
わたしは広島県知事の足跡もさがしていますが、この水害之碑の題字が14代広島県知事安河内でした。安河内の足跡をわたしははじめて見ました。
説明板にあった、海外からの義援金は碑裏をみていて(上記のように)当時としては大金である1,088円もの義援金が寄せられたことを知り、陸軍の兵士も援助隊ということで手助けしたこと。学校からも(宗教界の)廣島別院からも義援金があったことなども知ることができました。
    水害の碑 (*説明板は災害の碑となっています)
大正5(1916)年9月6日夜半、雷を伴う豪雨がしきりに降り、安川は濁流となって堤防が決壊し、田畑や家屋は泥流に押し流され、小高い丘が谷になるような惨状となり甚大な被害を引き起こしました。
死者4名。流失家屋21戸。
堤防決壊14ヶ所。橋の流失15ヶ所。多くの道路、田畑が流失しました。
また、この場所に建っていた安村役場や大事な書類はすべて流失し、安村存亡の危機となりました。
此の時、近隣の町村や海外の移住者からのあたたかい義援金が多く寄せられ、併せて復旧の人的援助も近隣の町村から寄せられ昼夜兼行、不眠不休の尽力により三ヶ年の歳月をかけて復旧しました。
この「水害の碑*」は、大きな災害を受けた当時の状況と、その苦境を乗り越えて安村の再建に取り組む村人の姿を後の世に伝えるために大正8(19191)年建てられたものです。
資料を見て以前からここ旧安村役場跡に忠魂碑が建立されていることを知っていましたが、今(2015年)回この辺りをぶらり散歩したのは(わたしは)はじめてでした。
区政振興課制作の「あさみなみ散策マップ」をみてこの水害碑も建立されていることを知り、訪ねた時は撮影しようと思っていました。
碑の根際に立っている説明板は”災害の碑”となっていましたが、
碑面を見ると「水害之碑」と刻まれていましたので、説明板は碑銘を読み違えているように思いますので、わたしの頁では水害の碑、水害之碑としています。
15.11.18.裕・記編集

15.11.04.撮影
広島市安佐南区相田2-4-37   相田集会所 (手前が安川)

15.11.04.撮影
 安村忠魂碑   と  安村水害碑

15.11.04.撮影

15.11.04.撮影
水害碑と説明板

15.11.04.撮影

15.11.04.撮影
(碑表:碑文) (碑裏:義援金寄付者など)

15.11.04.撮影
碑之害水

15.11.04.撮影



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安村忠魂碑
安村水害之碑
 


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