みょうきゅうじ
明休寺
  安佐南区相田に創建されている「浄願山・明休寺」です。
※Wikipedia“相田”の項目に浮願山と號す。とありますが、山号額をみると「浄願山」とあります。わたしの頁ではそれを採用しています。
浄願山・明休寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。
1577(天正5)年正伝寺の弟子・浄願が開基しました。その後子孫相伝えて正伝寺役僧となり寺務に従事していました。
1684(貞享元)年第六世正珍は広島藩革田帳宗旨判を扱いました。※
1824(文政5)年第十一世恵観のとき正伝寺持地に一宇を建立しそれを寺中・明休寺と称していました。1879(明治12)年寺名山号を公称しました。
境内に建立の「慶讃記念碑」を拝見して、
この石碑が1997(平成9)年3月本堂・会館建立、庫裡建立ならびに第十六世への継承記念として建立されてことを知りました。
また、加筆があり2006(平成18)年本堂が焼失し、2008(平成20)年再建されたことも知りました。
マップ説明文にある“革田”とは?と思ったのです。
皮田(かわた)は、江戸で云う穢多(えた)のことだそうです。
皮多、革田、革多などとも書きます。西日本で多い呼び方だそうです。
『皮田のおもな役目は斃牛馬の処理や革製品の製作ですが、その他に下級警吏などの仕事も行わされていました。また、地域によって違うかも知れませんが、雪駄(せった)の修繕、販売などを独占的に行うこともあったようです。
広島藩では街道筋に点々と被差別部落を配置しており、下級警吏、行刑使役、斃牛馬の処理を含む清掃など業務に当たらせました。また、警吏役の皮田には捕手術の訓練も行ったそうです。岡山藩でも皮田が目明しの業務に従事していました。庄内藩、高田藩、広島藩、徳島藩、小松藩、紀州藩などでは穢多身分の者に牢番役させていた。』ようです。
2015年(被爆70年)原爆死没者も合祀している安村忠魂碑を訪ねましたので、この辺りをぶらり散歩したのは(わたしは)はじめてでしたので、区政振興課制作の「あさみなみ散策マップ」を片手に歩きました。
マップに紹介がある正伝寺などのお寺を訪ねようと安川に架かる橋に正伝寺橋を渡ると、教宗寺で、その隣がここで取り上げた明休寺でした。
お寺の歴史の中にある“広島藩革田帳宗旨判を扱いました”は、安芸門徒と云われる広島(安芸国)での多数を占める浄土真宗に於いて、神祗(じんぎ)信仰や民間信仰を排除する役割をお寺が担っていたことの一端を知ることができるように(わたしは)思いました。また、現在につながる被差別部落問題にもつながる問題もあるのではと思いましたが。
16.11.21.裕・記編集

15.11.04.撮影
広島市安佐南区相田4-4-14

15.11.04.撮影

15.11.04.撮影
本堂前に掛けてある山号額「浄願山」

15.11.04.撮影

15.11.04.撮影
 
(明休寺はお寺の開基の状況からか正伝寺、教宗寺にコの字形で囲まれていますね)



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