岩国城
  江戸期初頭の城。山口県岩国市横山城山の山上にあります。別称:横山城。
関ヶ原の戦い後、防長二国に移封された毛利氏の一族吉川広家が1601(慶長6)に起工し、1608(慶長13)年に完成した山城です。1615(元和元)の元和一国一城令によって破却されました。城の麓、西、北、東を錦川が流れ外濠の役目をしており、領主の居館も麓にありました。
1962(昭和37)南蛮造とよばれる独特な形式をもつ天守閣が復興されました。
吉川氏(きっかわうじ)
鎌倉・室町時代、安芸国の地頭。のち毛利氏末家、周防国岩国藩主。平安末期、駿河国入江庄吉河邑に住し氏とした。鎌倉時代の初め友兼(ともかね:1159-1200)は功により播磨国福井庄の地頭職を受け、その孫経光(つねみつ:1129-1267)は安芸国山県郡大朝庄の地頭職を得、その子経高(つねたか:1234-1319)に至って1313(正和2)大朝庄に下向定住し、他の所領を子弟に分与した。
戦国時代には大内氏に属した。ついで毛利元就(1497-1571)が二男・元春(1530-1586)を吉川興経(おきつね:1508-1550)の養子に入れて山陰に対する押さえとし、それより代々毛利氏の末家となる。関ヶ原の戦い後、毛利氏削封に伴い岩国三万石を領し、1868(明治元)初めて大名に列し、岩国藩と称した。
吉川広家(きっかわひろいえ1561-1625)
安土桃山時代・江戸前期の武将。元春の三男。蔵人、民部少輔。幼時から豪胆であった。1583(天正11)豊臣秀吉の人質として上京、1587年兄元長の死により家を継ぐ。1591年伯耆、出雲、隠岐、石見、安芸の諸国に14万石を領して出雲富田城に居城した。文禄・慶長の役に両役とも従軍。関ヶ原の戦いでは毛利輝元の大坂入城を諫止しようとしたが果たさず、西軍にありながらひそかに徳川氏に通じ、戦後家康が広家に厚く報いようとしたのに対して、毛利氏領国保全のために奔走し、自身はそのうち岩国三万石(後の検地で六万石)に甘んじた。1617(元和3)領国統治の法度187条を定め、同年家を子の広正に譲った。
錦帯橋へは何度か来たことがありましたが、山うえに見える昭和37年に復元されたこの岩国城を見学したことがありませんでした。2002年ロープウェーに乗って、行ってみました。眼下に見える錦帯橋はすばらしいものでした。
02.02.10裕・編集

02.02.24撮影
山口県岩国市横山 山の上右手が岩国城   (左手の建物ロープウェー乗り場)

02.02.24撮影

02.02.24撮影

02.02.24撮影
天守閣より錦川、錦帯橋をみる



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