(吉香公園)錦帯橋記

  岩国市横山の吉香公園に建立されている「錦帯橋記」碑を取り上げました。
※玉惇成〔玉乃九華〕(たまの きゅうか:儒学者1797-1851)の撰文。
※錦帯橋は5つの木造橋が連なる構造。その内、中3連がアーチ構造。両端の2橋は反りを持った桁橋構造。
岩国市錦帯橋課の公開資料を参照すると
「錦帯橋名の由来」を
『「錦帯橋」の名前が初めて登場した史料は、宝永3(1706)年岩国の儒学者、宇都宮遯菴(1633-1709)による「極楽寺亭子記(ごくらくじていしき)」の中に「またいわく、錦帯橋、錦見(にしみ)の里に近きを以てなり」と書かれてあり、錦見という地名から名付けられたのではないかと云われています。
こんな説もあります。
吉川広嘉(1621-1679)が錦帯橋創建のヒントにしたとも云われている、中国の反り橋「蘇公提(そこうてい)」。この風景が錦の帯のように美しく「錦帯」と呼ばれていたので、そこから名付けたとか。
また、漢詩から引用したのではないかと考える人もおり、どの説が正しいのかは未だに分かっていません。』
「錦帯橋の架橋」は、
『吉川広嘉は、「西湖志」にある“五つの小島にかかる小さなアーチ橋が描かれた絵”にヒントを得て、実現に向けて進むこととなりました。
絵にある小島のような頑強な橋脚が築かれることになり、橋脚は水流方向に尖った角を持つ紡錘形とし、水の抵抗を最小限にとどめる形状にするなど、様々な工夫がなされました。
寛文13(1673)年6月28日橋脚の鍬初めが行われました。橋脚の構築と同時に橋梁の建設も進められ、
延宝元(1673)年10月1日に、長年の夢だった“流れない橋”が完成。関係者には褒美が与えられました。
しかし、この橋は、翌(1674)年5月28日洪水によって中の3橋が流失、両側2橋は無事でした。
橋はこれ以降、本当に“流れない橋”の実現のため、様々な改良を加えられることになりました。』
錦帯橋を渡り、シロヘビ観覧所(現・岩国シロヘビの館でした)に行こうと吉香公園でみたのが吉川広嘉の銅像で、その後ろに建っていたのがここで取り上げた「錦帯橋」碑でした。
錦帯橋については、岩国市役所産業振興部錦帯橋課が編集した“錦帯橋”についての各頁は読みごたえがあるもので、ここでは「橋名の由来」「錦帯橋架橋(のほんの一部)」を参照しましたが、錦帯橋ものしり博士になれることは間違いない処でしょう。
21.09.21.裕・記編集

20.12.06撮影
山口県岩国市横山   吉香公園
手前:皇太子殿下御成婚記念植樹・碑   中央:吉川広嘉公像  奥左手:錦帯橋記・碑

20.12.06撮影
「錦帯橋記」碑
現在の錦帯橋
長さ:199.3m
幅:5.0m



5橋の内
中3橋が柱無し
(アーチ橋)


延宝元(1673)年
10月3日渡初め




玉惇成〔玉乃九華〕
 (1797-1851)


弘化2年=1845年
明治8年=1875年



記橋帯錦






























































使


















































𣘺

西













































































使







































四仭








𣘺






























































































20.12.06撮影

20.12.06撮影
(裏面に刻まれた文字なし)



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