田中穂積先生胸像

  岩国市横山の吉香公園に建立されている「田中穂積先生胸像」です。
田中穂積(ほづみ:1855-1904)先生略伝
田中穂積先生は、1855(安政2)年11月4日岩国市横山3丁目(千石原)に次男として誕生。父は吉川藩士・田中判右衛門、母は黒杭氏です。
幼少より音楽の天賦の才を有し、1867(慶応3)年日新隊鼓手を務め、さらに1873(明治6)年海軍軍楽隊に入り五等鼓手を振り出しに終生軍楽隊に籍をおいてその発展に貢献するところ大でした。
1895(明治28)年大本営附として広島に赴き明治天皇(第122代:1852-1912)の側近に奉仕し、1890(明治32)年累進して海軍軍楽隊長となり同(明治32)年夏清国揚子江方面に出動、1904(明治37)年心臓の宿病を冒し軍楽隊を率いて戦没者の葬儀に参列、これが為に肺炎を併発して同(明治37)年12月31日あたら不出世の才幹を抱きながら享年50歳で佐世保海軍病院にて永眠。
先生は自ら持すること謹厳、人に接すること謙譲。その卓越した識見と高潔な人格は又世人の讃仰巳まないところでした。
先生の作曲には、不朽の名曲「美しき天然」をはじめ「黄海海戦記念行進曲」「如何に狂風」「南洋航路行進曲」など世に喧伝せられるものが多くあり、あの世界的に高名な軍艦マーチも原曲は先生の手になるものといわれています。
先生が逝去されて五十周年を迎えた1954(昭和29)年に田中穂積顕彰会が設立され、先生の遺芳を後世に伝えるため徳風を追慕してここに胸像が建てられました。その後更に1976(昭和51)年3月看板および胸像が改修されました。
1956(昭和31)年3月 岩国教育委員会、田中穂積顕彰会、岩国錦ライオンズクラブ
にっしんたい
日新隊
幕末期領主・吉川経幹(1829-1867) のとき岩国領内に結成された倒幕部隊(精義隊、日新隊、建尚隊、敬威隊など)のひとつの部隊。
こしゅ
鼓手
つづみや太鼓を打つ人。
うるわしき
   てんねん

美しき天然
1902(明治35)年私立佐世保女学校の音楽教師だった時、九十九島の美しい風景を教材にしたいと考えており、折りよく入手した武島羽衣(1872-1967)の詩に作曲しました。
この曲は、女学校の愛唱歌として地元では長らく親しまれていましたが、広く一般に知れ渡ったのはかなり後になってからです。
活動写真の伴奏や、サーカスやチンドン屋のジンタ(≒小人数の楽隊)として演奏されたことで、この曲が有名になった大きな要因の一つといわれているそうで、わたしも子供のころこの曲を聴きサーカスの宣伝曲と思っていました。
ぐんかん
軍艦マーチ
行進曲名。鳥山啓(ひらく:1837-1914)作詞、瀬戸口藤吉(海軍軍楽師:1868-1941)作曲の「軍艦」を、1900(明治33)年瀬戸口が自ら行進曲に編曲したもの。
2004年RCCラジオ特別番組・錦帯橋ラジオカルチャーウォークのときは、この胸像が田中という海軍軍人であったことなどを聞いただけで、聞き流していたと云ってもいいものでした。
今回(2013年)何処へ行ってもぶらり散歩「岩国市」編を再編集していますので、改めて田中瑞穂という人物に焦点を当ててこの頁を編集しました。
13.07.06.裕・記編集

04.06.06撮影
山口県岩国市横山   吉香公園

04.06.06撮影

04.06.06撮影



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