|
神武天皇(じんむてんのう)は、初代天皇と伝えられています。天皇在位(660B.C.-585B.C.)。
記紀にカンヤマトイワレヒコノミコトとあり、神武という中国風の諡号は、8世紀(奈良朝時代)後半になっておくられたものです。彦波瀲武草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四皇子。
九州日向(ひむか)から舟軍をひきいて瀬戸内海を東進して大和地方を平定、紀元前660年(皇紀元年)1月1日、大和の橿原宮で即位。前585年127歳で死んだということになっています。
記紀はこの物語を人代の最初に据え、神代との橋渡しとしていることからその内容は神話伝承的色彩が濃く事実の記録としては弱いのです。
実際の統一者崇神天皇(すじんてんのう:第10代)以前の天皇はまだ統一日本の君主でなかったのでしょうが、皇室の先祖であり簡単な系譜が何らかの方法で伝えられたと考えることができるのではという見解もあります。 |
広島をぶらり散歩していると神武天皇の伝承に接することがあるのです。 |
「古事記」では、
『神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国(あしはらのなかつくに=日本の神話的名称)を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにし、舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現・宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
こののち縷々あり、荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原(かしはら)宮(畝傍山東南の橿原の宮)で即位した。初代天皇・神日本磐余彦天皇(かんやまといわれ)(びこのすめらみこと)となった』としています。 |
その中の「阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年」過ごしたということで、広島の地にはいろいろな伝承が今日にも伝えられているようなのです。この頁は、広島に残る神武天皇関連の伝承ということで編集出来ればと思っていますが、わたしはまだまだ勉強不足なのです。 |
17.05.22.更新 08.10.19裕・記編集 |
|
|
06.03.14撮影 |
06.03.14撮影 |
08.10.22撮影 |
08.11.09.撮影 |
(安芸郡府中町)
多家神社 |
(安芸郡府中町・多家神社)
神武天皇御留蹕霊地・碑 |
(安芸郡府中町・松崎八幡宮跡)
神武天皇御腰掛岩 |
(安芸郡府中町)
聖蹟埃宮多祁理宮顯彰碑 |
06.06.28編集 |
06.06.29編集 |
08.11.27編集 |
09.07.09編集 |
|
04.11.10撮影 |
08.06.07撮影 |
12.10.16.撮影 |
(安芸郡府中町・水分峡)
草摺の滝 |
(東区温品)
高尾山・岩谷寺 |
(呉市)
JR天応 |
07.06.17更新 |
03.08.09編集 |
12.11.27編集 |
|
|
08.10.04撮影 |
08.10.04撮影 |
05.06.18撮影 |
12.02.18撮影 |
(西区新庄町)
天王延命地蔵尊 |
(西区新庄町)
天王橋 |
(西区井口)
大歳神社 |
(安佐南区・火山)
火山烽火伝説 |
08.11.10編集 |
08.11.11編集 |
05.07.05編集 |
17.05.22.編集 |
|
|
08.09.28撮影 |
08.09.28撮影 |
07.09.04撮影 |
07.09.04撮影 |
(廿日市市串戸)
天王址・碑 |
(廿日市市宮内)
宮内天王社 |
(廿日市市・御手洗川)
御手洗橋 |
(廿日市市)
JR宮内串戸駅 |
08.10.29編集 |
08.10.23編集 |
07.10.08更新 |
07.09.26編集 |
|