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南区霞の広島大学医学部医学資料館前に建立されている「旧・広島陸軍兵器支廠モニュメント」です。
※広島陸軍兵器支廠は解体され、その建物に模して建設されたのが広島大学医学部医学資料館です。 |
広島大学医学部11号館 |
1894 (明治27)年に勃発した日清戦争をきっかけに広島は軍事都市としての性格を強め、市内に多くの軍事施設が設置され、この地にも兵器支廠(軍用倉庫)として11棟の2階建レンガ造群などが建設されました。
1945(昭和20)年8月6日原爆に被災したものの、比治山の陰で建物に大きな被害はなく、臨時救護所として罹災者の救護が行われました。
戦後は広島県庁などに、その後、広島大学医学部に移管されましたが、施設整備の拡大に伴って次々に姿を消しました。最後の1棟となった11号館は、医学部創立30周年を記念して設置された医学資料館などとして利用され続けましたが、新病棟の整備に伴い1999(平成11)年3月に取り壊されました。
この建物が大正初期の建造物であり、広島市被爆建物等保存・継承建物であったことから、新しく医学資料館を建設するにあたり、玄関を中心としたレンガ壁及びほとんどの石材は11号館に使用されていたものを利用し、外観もほぼ完全な形で復元しました。 |
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もともとの建物は、広島陸軍兵器補給廠第11兵器庫
爆心地から≒2,750m
被爆当時町名;霞町 (耐火性のある)レンガ造(イギリス積)、2階建て、1920(大正9)年ころ竣工 |
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基町に1887(明治30)大阪砲兵工廠広島派出所が設置され、1905(明治38)年広島陸軍兵器支廠に昇格。
1906(明治39)年東新開(霞町)に兵器庫が増設され、1918(大正7)年組織もこの地に移転しました。
1904(明治37)年1月〜1914(大正3)年にかけ第1〜第10兵器庫が建設され、
1920(大正9)年から第11〜17兵器庫が建てられたがここの正確な建設年代は不明(※軍事機密からでしょう?)。
1940(昭和15)年からは陸軍兵器補給廠と改称。
1945(昭和20)年8月6日も修道中学、崇徳中学の生徒約370名が動員されており、
他の動員された婦人や兵士とともに被爆した。
原爆の爆風で屋根や窓に被害を受けたが、建物はほとんど被害なく、火災も発生しなかったので、
門を開放し、臨時救護所として軍民の区別なく押し寄せる罹災者の救護に当たったそうです。
1946(昭和21)年6月〜1956(昭和31)年広島県庁として県政の中心地となりました。
1957(昭和32)年10月からは広島大学医学部・附属病院になりました。 |
資料をみて、2003年に宇品陸軍糧秣支廠(現在の広島市郷土資料館)、広島陸軍被服支廠を訪ねましたが、
広島陸軍兵器支廠は既に解体され、往時の建物は見ることが出来ないと思っていました。
2006年訪ね、モニュメントの説明文を読むと、もとのように復元したとありましたが玄関周りの意匠が違うな〜と(わたしは)思いました。 |
07.02.23更新 06.11.24裕・記編集 |