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中区東白島町の広島逓信病院前に建立されている「広島逓信病院・原爆被災説明板」です。 |
広島逓信病院・原爆被災説明板 |
爆心地から約1,370m
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鉄筋コンクリート2階建てのこの病院は、原子爆弾による爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの類焼などにより、2階内部はほとんど全焼しました。
空襲に備えて、被爆1カ月前に、入院患者すべてを退院させていたため、人的被害は比較的軽微でした。火勢が弱まった当日の夕方から、数多くの負傷者が押し寄せ、職員は医薬品や衛生材料、食糧の確保を行う一方、懸命な救護にあたりました。この病院は、市内に残った数少ない医療機関として、医療面、調査面で重要な役割を果たしました。 |
かろうじて残った広島逓信病院。背後は広島逓信局
1945(昭和20)年10月上旬 川本俊雄氏撮影 |
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病院沿革概要 |
1922(大正11)年5月5日 |
広島市西地方町に広島逓信診療所として開設 |
1935(昭和10)年12月22日 |
広島逓信診療所・外来診療棟として(当時町名・基町に)竣工(RC造地下1階2階建一部3階。1,607u) |
1940(昭和15)年7月12日 |
内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科、小児科、歯科の6診療科(産婦人科昭和18年設置 |
1942(昭和17)年11月1日 |
広島逓信局 広島逓信病院となる |
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1945(昭和20)年7月以降 |
空襲に対する措置として入院患者は退院させていてました。 |
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1945(昭和20)年8月6日 |
(被爆当時職員のみが勤務しており)職員48名中死者5名、重軽傷者32名を出した。被爆当日病院に収容された重傷者は250人に達したそうです。
被爆1ヶ月でこの病院で119名の方々が亡くなったそうです。 |
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資料をみて、ここにも原爆被災説明板が設置されていたのかと訪ねたのです。
広電白島線沿いではないことからこの前はあまり通ったことがなかったのです。 |
コロナ禍の2021年3月近くに来たとき、郵政関連の原爆慰霊碑などは撮影したのですが、ここで取り上げた原爆被災説明板を撮影していなかったのに気付き2004年以来久しぶりに11月になり撮影しましたのでこの頁を更新しました。 |
22.03.31.更新 04.04.30裕・記編集 |