広島逓信病院

  中区東白島町に建てられている「広島逓信病院」です。
※2022年10月1日医療法人生和会(周南市)譲渡予定だそうです。
広島逓信病院の前身は、西地方町に開設され、1935(昭和10)年からいまの東白島町に移ってきています。
被爆した広島逓信診療所は、1935(昭和10)年11月竣工。鉄筋コンクリート造2階建(一部3階・地下1階。)
1995(平成7)年に南側の棟が中国郵政局により保存措置がとられ一部が「広島逓信病院被爆資料室」となっています(別頁で編集しています)。
この頁では現在の広島逓信病院に焦点をあてて編集しました。
現在の診療科目:内科、外科、産婦人科、小児科、眼科、整形外科。 病床数:110床。
病院沿革概要
1922(大正11)年5月5日 広島市西地方町に広島逓信診療所として開設
1935(昭和10)年12月22日 広島逓信診療所・外来診療棟として(当時町名・基町に)竣工(RC造地下1階2階建一部3階。1,607u)
1940(昭和15)年7月12日 内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科、小児科、歯科の6診療科(産婦人科昭和18年設置
1942(昭和17)年11月1日 広島逓信局 広島逓信病院となる
1945(昭和20)年7月以降 空襲に対する措置として入院患者は退院させていてました。
1945(昭和20)年8月6日 (被爆当時職員のみが勤務しており)職員48名中死者5名、重軽傷者32名を出した。被爆当日病院に収容された重傷者は250人に達したそうです。
被爆1ヶ月でこの病院で119名の方々が亡くなったそうです。
1949(昭和24)年5月28日 逓信省分割で、 郵政省附属病院となる
1976(昭和51)年5月28日 外来診察棟新築竣工(鉄筋コンクリート造、3階建、地下1階。3,718u)
1994(平成6)年3月23日 本館竣工(鉄筋コンクリート造、5階建、地下1階。9,385.27u)
1995(平成7)年7月15日 旧外来棟改修工事竣工。
2022(令和4)年10月1日予定 7月28日中國新聞報道(下高充生記者)の記事参照。
医療法人社団生和会に譲渡する方針を日本郵政が固めた。
現在の6科、病床数110床は10月以降も維持され、希望する職員の雇用も維持するそうですが。
被爆の証玉石は、玄関前(道路側)に設置されています。
広島逓信病院・原爆被災説明板も設置されています。
原爆被災説明板が設置されていたので撮影に訪ねたのですが、(広島逓信病院)玄関先に‘被爆の証’と云うものが設置されていました。説明文を読めばこの地ではなく広島市中区袋町に新築された広島郵便局電話分室の局舎正面玄関口の両脇に一対の玉形飾りいしとして造られたものだったようですが、逓信(郵政)関連のものとしてここに残されるようになったようです。
「被爆の証」玉石も一緒に編集していましたが、2015年になりましたが分離した頁に編集しましたので、この頁を広島逓信病院の頁としました。
15.04.25.再編集      04.04.30裕・記編集

04.04.22撮影
広島市中区東白島町19-16

04.04.22撮影
原爆被災説明板が設置されています

04.04.22撮影
「被爆の証」玉石が展示されています
 1976(昭和51)年7月撮影の旧館 (説明板の写真)
 (逓信病院の南側の)拘置所外壁には入野忠芳作(広島城築城四百年記念)外壁画が描かれています
(被爆後の)広島逓信局 広島逓信病院



「建物など」編


「被爆した建物・構築物」編



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郵政関連頁
郵政関係原爆慰靈碑
  栗原貞子「生ましめんかな」詩碑
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  被爆アオギリ2世(として戻ってきた)
広島逓信病院
  被爆の証・玉石
広島逓信病院被爆資料室
(モニュメント)
広島逓信病院・原爆被災説明板
郵便貯金創業百年記念樹・碑


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