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中区東白島町にある現在「広島逓信病院(旧外来棟)被爆資料室」です。
*1945(昭和20)年8月6日被爆時は“広島逓信診療所の外来診療棟”で爆心地から1,370mでした。
※2018(平成30)年日本郵政は広島市に寄贈し、現在は広島市が一般公開しています。 |
1935(昭和10)年12月22日広島逓信診療所・外来診療棟として(当時町名・基町に)鉄筋コンクリート造2階建(一部3階)地下1階。延面積1,607uで竣工しています。 |
広島逓信病院 Hiroshima Post and Tele-Communications Hospital (爆心地から約1300m)
平成7(1995)年8月 広島逓信病院長 佐々木博雅 |
この建物は、昭和10(1936)年12月に広島逓信診療所の外来診療棟として建築されたものです。
昭和20(1945)年8月6日8時15分の原爆投下では、一切の施設が破壊され、一部は焼失し外郭を残すのみとなりました。
また、職員48名中死者5名、重軽傷者32名を出しましたが、病院には原爆投下直後から被爆負傷者が多数殺到し、職員は献身的な救護治療活動にあたり、原爆空襲下全職員と患者が生死を超越してお互いに助け合い「人間の精神力は地球上の如何なる力よりも強く、尊く優れていること」を身をもって証明した病院として人道史上貴重な建物であります。
このたび被爆50周年記念施策の一環として被爆体験を永く後世に伝え、平和意識の高揚を図るために建物の一部を改修し保存・活用することとしました。 |
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広島逓信病院は、爆心地から≒1,370mということから2階のほとんどが焼失し、1階は類焼を免れたが大きな被害を受け、逓信病院関係者では職員48名中5名死亡、7名重傷,25名軽傷だったそうです。
(本格的空襲に備え昭和20(1945)年5月20日〜7月7日までに入院患者を退院措置にしていたため入院患者の被害はなかった)そうです。 |
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以前から中国郵政局(現:日本郵政公社中国支社)敷地入口横に建物があり被爆資料室になっていることを知っていましたが通常鍵がかかっており見学するのにわざわざ申し込むことはありませんでした。
今(2005年)回おじさんの原爆記にも出てくることからも兵器部に関する資料があるかもしれないから見学しようとまず、逓信病院の建物だということで逓信病院の受付を訪ねました。
しかし管理が日本郵政公社中国支社総務部ということで連絡を取っていただき企画部広報室の方が鍵を持ってこられ開錠していただき、仕事中であろうにわたしのペースにあわせて親切に案内してくださいました。 |
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おじさんの原爆記にも出てくる『・・・郵政局の白亜の大建物だけが巍然として聳えている・・・・』と倒壊しなかったとあることから広報の方にお願いして被爆資料室展示の中国郵政局旧庁舎、旧・細工町にあった廣島郵便局などの写真を撮影させていただきました。 |
広島逓信病院の復元されている旧消毒室、旧手術室も最後に見学させていただきました、昭和10(1935)年竣工の建物としては窓の面積が大きく、緑っぽいタイル、コーナー部はR面のコーナータイルを使ったしゃれた手術室だな〜と建築屋の端くれのわたしが独り言のようにいうと広報の方が「窓を大きく開けたデザインは昭和7(1932)年頃の電話局からはじまり病院に適用したのは広島逓信病院が最初であったのですよ(設計は山田守だった)」と教えてくださいました。 |
2015年久しぶりに外側からだけでしたがみました。この頁に掲載していた画像などを見直し頁を再編集しました。 |
2021年電車通り(東側)歩道を歩いたとき、(スロープも造られ)主出入口がこちらになるように改修され、広島逓信病院旧外来棟(被爆資料室)東面が通行人にもよく見えるようになっていました(ので)。
改めて外観を撮影しましたのでこの頁を更新しました。
2022年7月28日中國新聞報道で、この建物が2018年に広島市に寄贈されたことを知りましたので追記しました。 |
22.04.05.更新 15.04.25.再編集 05.06.18裕・記編集 |